Maika Kanonical〜奇跡の翼〜

  第1章 わたしという存在

   *

               わたしが草薙家にお世話になるようになってから一週間が過ぎた。

 真雪さんはわたしの身元を突き止めるためにいろいろと手を尽くしてくれているようだけど、今のところこれといって分かったことはないとのこと。

 まあ、無理もないとは思う。持ち物って言っても、最初に着てた服以外じゃ剣が一本あるだけだし。

 他にわたしにあるものと言えば、17年分の相沢祐一の記憶と後はこの身体くらいのものだけど、さすがにそのあたりの事情を話しても信じてはもらえないだろう。

 わたしも変な人とか思われたくはないので、このまま記憶喪失ってことで通すことにする。それにしても、まったくややこしいというか、面倒なことになったものだ。

 早朝の草薙家の廊下を道場に向かって歩きながら、わたしは内心溜息を漏らす。

 いざ何かしようとして分かったことは、所詮わたし自身はただの少女でしかないということだった。

 わたしが現れたことで、この時代の相沢祐一や川澄舞がどうなったのか。調べようにもそのための手段がわたしにはないのだ。

 いや、水瀬家の電話番号は覚えているけれど、記憶喪失のわたしが何処かに電話なんてしていたらあからさまに怪しいと思われてしまうだろう。

 携帯電話なんて便利なものはまだ無いし、固定電話を見つからないように掛けるのも無理。

 毎日の新聞やTVのニュースでも別段役に立ちそうな情報は入ってこないし、正に八方塞だ。

 それとは別にこれからの生活をどうするかも考えないといけない。さすがにいつまでも居候させてもらっているわけにもいかないから。

 片付けないといけない問題は案外多くあるのだ。

 道場の扉を開けて中に入る。

 唯一の持ち物である剣を壁に立て掛け、適当に身体を温めてから、門下生に混じって最近の日課になっている木刀での素振りを行なう。

 門下生でもないわたしが道場を使うのもどうかと思って、最初は庭の隅を借りようとしたのだけど、それは草薙のおじいさんに止められてしまった。

 ――曰く、師範を倒した強者に庭なんぞ使わせられるか、とのこと。

 いや、まあ良いんだけどね。

「おはよう、舞歌ちゃん」

「おはよう。今日も早いね」

 木刀を振るうわたしに、年の近い何人かの門下生が声を掛けて素振りに加わってくる。わたしはそれに答えながら木刀を振り上げ、勢いよく振り下ろした。

 ――舞歌、それが今のわたしの名前だ。川澄舞の舞に、歌を歌うの歌で『まいか』って読む。

 自分の名前から字を取るなんて、まるで子供に名前を付けるみたいだなって言ったら、舞は照れたような気配を伝えながら似たようなものだと言った。

 わたしは祐一のおかげで幸せだったから、その幸せをこれからのあなたにも感じて欲しい。舞歌という名前には舞いのそんな思いが込められているのだという。

 それを聞いたわたしは嬉しかったけど、でも、同時に少しむっとした。だって、わたしの幸せは舞と一緒にあることなんだから。

 自分の幸せがもう終わってしまったみたいに言わないで欲しい。拗ねたように頬を膨らませてそう言ったわたしに、舞は何故か苦笑しながら頷いていた。

 まあ、そんなわけで、わたしの名前は舞歌になった。ちなみに、苗字のほうは面倒くさかったので忘れたことにしている。

 記憶喪失って案外便利なものなのね。

 一通り身体を動かして、草薙家の娘さんたちと一緒に風呂に入る。

 これは朝の貴重な時間を有効利用するためだが、真雪さんや葉月さんが一緒だと目のやり場に困る。

 身体が女になったからって、心まですぐに変わってしまうわけじゃないから。無意識レベルではともかく、意識的にはわたしはまだ相沢祐一らしい。

 ……本当に、辛うじてだけど。

 気持ちよく汗を流した後は家族全員そろっての朝食が待っている。これは決まりで、余程のことがない限り例外は認められないとのこと。

 古い家らしい仕来たりだとは思うけど、少人数での朝食に慣れているわたしにとっては何かと新鮮だった。

 食事も和食が基本で、炊き立ての白いご飯に具沢山の味噌汁。魚か肉を使った主宰の他に副菜が二品もあるという贅沢ぶりだ。

 草薙家の娘さんたちもそうだけど、わたしのこの身体も育ち盛りのようで、以前の男だった頃から比べても驚く程、よく食べるようになっている。

 舞などはあまり食べ過ぎると後で体重を気にしないといけなくなるとぼやいていたけれど、わたしはそこまで気にしてはいない。朝だって鍛錬しているし、大丈夫だよね。

 しかし、身体を動かした後のご飯がこんなに美味しいものだとは知らなかった。祐一だった頃は早朝マラソンと舞との鍛錬以外で身体を動かすことなんてなかったから分からなかったけど、これは良いな。

 草薙家は女の子が多いので食卓も華やかだ。

 ふとテーブルの一角に目をやれば、ついさっきまでそこにいたはずの真雪さんの姿がない。

 あの人は必ずと言っていいほど食事中に一回は席を離れるのだ。

 お行儀が悪いと思うんだけど、何故かこの家の人たちは誰もそれを注意しようとはしない。何か事情があるのだろうか。

 気にはなったけど、無闇に他人が立ち入るのもどうかと思うので、今のところこちらから聞くことはしないでいる。誰にでも秘密にしたいことはあるのだ。

 それに、わたしのほうもすぐにそんな場合では無くなってしまった。

『――では、次のニュースです。昨日の夕方、花音市の郊外にある大木から子供が転落し、大怪我をする事故がありました』

 唐突にTVから流れてきたそのニュースに、わたしは思わず持っていた湯飲みを取り落としてしまった。

『子供はすぐに病院に運ばれましたが、意識不明の重態で助かるかどうかはまだ分からないとのことです』

 ニュースキャスターの声が遠くに聞こえる。突然、湯飲みを取り落としたわたしに、向かいに座ってお茶を飲んでいたおじいさんが慌てたように声を上げるけど、わたしはそれに何の反応も返せない。

 ――脳裏にちらつく赤い雪の幻影……。

 今、わたしの中で、唯一欠けていた相沢祐一の7年前の記憶が完全な形で蘇った。

   * * *

 構内に列車の到着を告げるアナウンスが流れる。

 向かう先はここよりも寒い北の町。そこから始まる一つの物語を見届けるために、わたしは今旅立とうとしていた。

「じゃあ、そろそろ行くわね」

 そう言って小さく手を振るわたしに、一つ年下の妹分が笑って手を振り返してくれる。本当は寂しいくせに、気丈にも笑って見せるのは心配させたくないからだろう。

 まったく、誰に似たのかいらないところで無理をするものだから、姉としては心配だ。

 まあ、あそこの人たちは皆優しいから、任せておいて大丈夫だとは思うけど。

 軽く頭を振って考えを切り替える。

 相沢祐一が記憶を失い、今のわたしがそれを取り戻すきっかけとなった事故から7年の月日が流れて、わたしはまたあの町へ行こうとしている。

 そこには相沢祐一がいて、水瀬名雪がいて、そして、川澄舞がいるのだろう。

 皆知っていて、だけどわたしが知っている彼等とは違う、この世界のこの時代の人たちだ。

 そこにかつてのわたしの居場所はないだろうけれど、それでもわたしなりにけじめを着けておきたいから。

 決意を胸に、もう一度始まりの場所へ……。

 降り立った駅のホームはやっぱり寒くて、わたしは思わず自分の身体を新調したばかりのコートの上から抱きしめる。

 今朝までいた町は気候が穏やかで、冬でも比較的寒くなかったから尚更だ。

 腕時計で確認した時刻は午後1258分。待ち合わせの1時までもう2分もないけれど、わたしは別段急ぐことなく改札へと足を向ける。

 この後2時間も待たされることを考えると、寧ろもう2本くらい後の便で来ても良かったくらいだ。

 そうしなかったのは彼女、水瀬名雪が来る前に確かめておきたいことがあったから。

 改札を潜り、駅の外へと出たところで一度足を止める。

 見上げた空はあのときと同じ重たそうな黒雲に覆われていて、その向こうにあるはずの太陽の姿を見る子とは出来なかった。

 ――胸に飛来するのは帰ってきたという実感……。

 やり直すという約束の元に過去へと飛んだわたしは既に相沢祐一ですらないけれど、それでもやるべきことはちゃんとあるから。

 視線を正面へと戻せば、見覚えのある少し古びた木のベンチ。そこに、かつての自分の姿を見つけて、思わずホッと安堵する。

 よかった。ちゃんと戻ってきてた。

 当時の自分の心境を考えると微妙なところだったけれど、とりあえずこれで物語が紡がれないという危険は回避されたわけだ。

「こんにちは。隣、座ってもよろしいかしら」

 寒さに顔を顰めながら両手を擦り合わせているかつての自分へと近づいてそう声を掛ける。

「ああ。いや、でも、雪で濡れてて冷たいから」

「平気、じゃないですけど、わたしもしばらく待たないといけませんし、そうなるとどの道、濡れてしまいますから」

「そっか」

 気を使ってくれたらしい彼に、とりあえず無難に受け答えておく。本当は待ち合わせなんてしていないのだけど、しばらくの間ここにいる理由としては適当だろう。

「それで、わたしはあなたの隣に座っても良いんでしょうか」

「ああ、濡れてもいいんなら俺は別に構わないけど。って、いうか、別に公共の場所なんだからいちいち断らなくても良いだろうに」

「だって、あなたに迷惑が掛かるかもしれないじゃないですか」

「何故に?」

「ほら、あなたの待ち人さんが来たときにわたしみたいなのが隣にいたら変な誤解をされちゃうかもしれないでしょ」

 不思議そうに聞き返してくる彼に、わたしは楽しそうな笑みを浮かべてそう答える。だって、楽しいんだもの。そういう状況を想像すると、ほら。

「ああ、ないない。俺が待ってるのはただの従姉妹で、恋人とかじゃ全然ないんだから」

「言ってて虚しくありません?」

「いや、まあ、少し」

 わたしに指摘されて、彼の表情に少し苦いものが混ざる。

「せっかくの休日、それもこんな雪の中で恋人でもない人を待っているなんて、とても健全な男子学生のすることとは思えませんね」

「ほっといてくれ」

 わざとらしく大仰に溜息を吐いてみせるわたしに、彼は拗ねたようにそう言ってそっぽを向いてしまった。うーむ、失敗だったかな。

「雪、止みませんね」

 手持ち無沙汰になったわたしは、足をぶらぶらさせながら空を見上げて一言。

「ここらは一応豪雪地帯だからな。一度降り出したら簡単には止まないだろうな」

 わたしの呟きが聞こえたのか、彼も呟くようにそう言った。

「鎌倉とか作れるかしら」

「作れるんじゃないか」

「雪達磨は?」

「余裕だろう」

「素気無いですね。もしかして雪、嫌いですか?」

 軽く目を細めてそう尋ねる。知っていて聞いているわたしは実は結構意地悪なのかもしれない。

「ああ、そうかもしれないな」

 考え込むようにしてからそう答える彼の態度はやっぱり素気無い。って、初対面の女の子に愛想振り撒くような正確でもなかったか。

「君はどうなんだ?」

「え?」

「雪、好きなのか」

 意外な質問だった。いや、彼にしてみれば、何気ない問い掛けなんだろうけど。

 さて、何て答えたものか。

 頤に人差し指を当ててしばし考える。

 あの事故を思い出させるから雪そのものは嫌いなんだと思うけど、妹や友達と雪で遊ぶのは嫌じゃない。

 楽しいと思えるから、その間は嫌なことなんて忘れていられる。でも、その後はまた思い出して悲しくなるのよね。

 自分に積もった雪を払って立ち上がる。

 結局、わたしはまだ何も振り切れてはいないのだ。

「わたし、そろそろ行きますね」

「あ、ああ……。って、誰かを待ってたんじゃないのか?」

「さすがに身体が冷えてきましたし、何処か適当な場所で温まってから出直すことにします。あなたもどうです?」

「いや、どうですとか言われても」

 戸惑う彼の腕を取って立たせると、わたしは有無を言わせない勢いで歩き出す。押しに弱いところは相変わらずのようだ。

「だから、俺、あそこで従姉妹を待ってなきゃいけないんだって」

「雪の中を30分以上も待たせるような人のことなんて、放っておけば良いんです。それよりわたしとお茶しませんか?すぐそこに喫茶店ありますから、そこで身体を温めましょう」

 一応の抵抗を見せる彼に、わたしはきっぱりとそう言うと駅近くの喫茶店へと引っ張っていった。

 さすがにあのまま放置は出来ないし、彼も一人寂しく雪達磨になるよりはわたしみたいなのでも女の子と一緒に過ごすほうが良いはずだ。

 現に渋々というような表情を見せながらも彼はしっかりとわたしの対面に腰を落ち着けていたりする。

「ここのコーヒー、結構美味しいんですよ」

 およそ7年ぶりに訪れた店内の様子に懐かしく目を細めながら、手持ち無沙汰なのか視線を彷徨わせている彼へとそう声を掛ける。

「ふーん。ここにはよく来るのか?」

「そうですね。前はよく来てました」

「前はってことは、最近は来てなかったってことだよな。他に良い店でも見つけたとか」

「そういうわけじゃないんですけどね」

 不思議そうな顔をする彼に微苦笑でそう答えると、運ばれてきたコーヒーに口を付ける。

 口腔に広がる香ばしい香りに、思わず吐息が零れる。

 決して高級ではないのだけれど、不思議と安心出来るこの香りと味がわたしは好きだった。

 ふと顔をあげると、何故かじっとこっちを見ている彼と目が合った。

「何です?」

「あ、いや、別に」

 慌てて視線を逸らすその様子が可笑しくて、わたしは思わず小さく笑ってしまった。

「ダメですよ、わたしなんかに見惚れてちゃ。この町にはもっと魅力的な女の子が何人もいるんですから」

 悪戯っぽく笑ってそう言うわたしに、彼は慌てたように何事か弁解してくる。しかし、狼狽していると、例えそれが事実であってもまるで説得力が感じられなくなるものなのね。

 かつてのわたしが彼女たちにそうしたとき、なかなか信じてもらえなかった理由がよく分かった。

 まあ、昔の自分のみっともない姿をこれ以上見ているのもあれなので、適当にフォローを入れて落ち着かせておくことにする。

 というか、これくらいで慌てる程純粋な少年だったかわたしは。

 思わず彼のことをじっと見てしまう。

 あー、こら、そんな少し見つめられたくらいでどぎまぎするんじゃないの。ますますからかいたくなっちゃうじゃない。

 まるで恋を知ったばかりの少年のような、初々しい反応。ぶっちゃけあり得ないそれに、わたしのほうが逆に慌ててしまう。

 こいつはわたしをからかっているのだろうか。いや、きっとそうだ。無理やり連れて来たからって、その仕返しのつもりなのね。

 なんて男なの。こっちはあの後の展開を知っていたから、地獄を回避させてあげたのに。

 冷静になってみれば理不尽だと思えるその怒りを覚えたてのわたしはそのまま対抗心へと転化させる。

 わたしの中で舞が何故か深々と溜息を漏らしていたけれど、彼への仕返しを考えるのに夢中だったわたしはその理由を考えもしなかった。

 それがまさか、あんなことになるなんて……。

   * * *  つづく  * * *

 

 





いよいよ舞台はあの北の地へ。
美姫 「時代もあの頃となって新たな物語が幕を開ける!」
さてさて、どんなお話になるのかな〜。
美姫 「舞歌の介入により、歴史がどう変わるのかしらね」
楽しみだよ〜。
美姫 「本当ね。次回も首を長くして待ってますね」
待ってます!



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