第五章 古き夜の終わりに
* * * * *
「寝過ごした!」
枕元の時計を見た途端、咲耶は布団を跳ね除けて飛び起きた。
八月三十一日は夏休み最後の一日であると同時に天領学園の学園祭が開催される日でもある。
そんな大切な日に寝坊するなんて……。
咲耶は大慌てで制服に着替えると、階段を転げるように駆け降りた。
一夜で復活した謎のリビングを抜けてキッチンへと飛び込む。
そこに兄の姿はなく、ユリナとルビッカが二人で朝食を摂っているところだった。
「おはよういただきます!」
言うが早いか、咲耶は朝食に飛びついた。
卵焼きを海苔で巻いて口に放り込み、ご飯をみそ汁で流し込む。
「ごちそうさまでした。いってきます!」
非常に体によくない食べ方をしつつもきっちり全部平らげてから咲耶は席を立った。
鞄片手に玄関を飛び出すと、外はもうすっかり暑くなっていた。
思わず立ち止まり、ついでにちらりと腕時計を見る。
……八時十三分。
「ダメ、これじゃどんなに急いでも間に合わないよぉ」
咲耶は嘆きの悲鳴とともに天を仰いだ。
小鳥が一羽飛んでいくのが見えた。
自分もあんなふうに空が飛べたら。そうしたらこの危機的状況も打破出来るのに。
ねえ、魔法で空を飛ぶことって出来ないの?
飛べますよ。でも、わたしたちの場合は魔法よりもこっちのほうがいいでしょう。
そう言うと、美雪は意識の中でそっと咲耶の背中に触れた。
え?
咲耶は恐る恐る自分の背中に手を回してみた。
そこに翼があった。
光のように透き通った純白の翼が一対、彼女の背に生えていた。
さあ、羽ばたいて。時間がないんでしょう?
で、でも……。
大丈夫。この翼は元々はあなたのものなんですから。
言われるまま、咲耶は背中に意識を集中させた。
ちゃんと思うように動いてくれる。
五年間のブランクが気になっていたが、これなら十分いけそうである。
繰り返し何度も羽ばたくうちに体はゆっくりと地面から離れていく。
咲耶はそのまま一気に空高く舞い上がった。
「いってらっしゃい」
見る間に小さくなっていくその姿をユリナはルビッカと一緒に見送った。
* * * * *
眼下の景色が高速で後ろに流れていく。
風を切って滑空するのをこんなにも心地よいと感じたのは初めてのことだった。
昔はただ疎ましいだけだった。
翼を持って生まれたから回りは勝手に天使だと決めつけて、使命を押し付けた。
それをおかしいと思うようになったのは年がようやく二桁になった頃だ。
どんな姿で生まれようと関係ない。自分の生き方は自分で決めるものだ。
咲耶は人間として生きることを選んだ。そのために自分を天使たらしめている翼を捨てた。
――人間はその足で地上を歩くものだから、翼なんて必要ない。
その考えは今も変わってはいないのだけど、不思議とあの頃のような不快感は感じない。
翼があっても自分は人間、それが変わるわけではないということに気づいたからだろうか。それにあったらあったでこれは便利なものである。
他の人にはないものを持っているので少し特をした気分にもなれる。
そんな以前の自分には考えられなかったプラス思考に咲耶は自分でも驚いていた。
あなたは変わりました。それもいい意味で。
美雪は嬉しそうに微笑みながらそう言った。
確かにそうだと思う。自分はもうあの頃とは違うのだ。
――気がつくと、もう学園が近づいていた。
ゆっくりと減速しつつ、咲耶は三番校舎の屋上に着地した。
* * * * *
「あ、いたいた。お兄ちゃぁぁん!」
昼時の喫茶スペースに明るい少女の声が響き渡る。
咲耶だった。
顔を上げたまことは反射的に立ち上がって逃げようとした。
今朝、おいてきぼりにしたことを怒っていると思ったのだ。
だが、彼女はいたって上機嫌の様子でにこにことまことに近づいてきた。
「ここにいたんだ。探しちゃったよ」
「俺に何か用事か?」
「うん。お昼、一緒に食べようと思って」
「俺は構わないけど、おまえは持ち場を離れて大丈夫なのか?」
咲耶はこの学園祭で仲間と一緒に自分の作品を売り出すことになっていたはずだ。
「大丈夫。だって、もう全部売れちゃったんだもん」
「そいつはすごいな。
「でしょう。わたしもまさかあんなにたくさんお客さんが来てくれるなんて思わなかった」
心底満足した様子で咲耶は言った。
妹が同人活動をしていることはまことも以前から知っていた。
去年も夏コミには出店していたし、出版社への持ち込みもときどきしているらしい。
尤も、採用されたという話はまだ一度も聞いたことがないのだが。
まあ、地道に努力を続けていれば、いつかそれが実を結ぶこともあるだろう。
それはともかく、これで彼女の機嫌がいい理由はわかった。
「それじゃあ、完売祝いに今日の昼飯は俺が奢ってやるよ」
「本当に?」
「ああ。何でもってわけにはいかないが、そこのメニューにあるものでよければ」
「じゃあ、わたしサンドイッチセット。飲み物はオレンジジュースがいいな」
「わかった。ちょっと待ってろ」
そう言うと、まことはクラスメイトの経営する喫茶店のカウンターへと向かった。
妹と一緒にいるところを見られていたらしく、悪友たちにシスコンとからかわれたが、彼は意にも介さない。
二人分のサンドイッチと飲み物を持って戻ると咲耶が急に場所を変えようと言い出した。
「お兄ちゃん、こういうざわついた雰囲気って苦手だったでしょ。だから」
そう言って咲耶が向かったのは屋上だった。
「わぁ、結構暑いね……」
重い鉄扉を押し開けて外に出るなり、彼女はたまらず目を細めた。
「ここは陽射しを遮るものが何もないからな。戻って屋内で静かな場所を探そう」
「大丈夫。こうすれば……」
言いながら咲耶は右手を空にかざして結界を張った。
UV100パーセントカット。それだけでずいぶんと涼しくなったように感じられる。
「おまえ、すっかり魔法の扱いが上手くなったな」
「お兄ちゃんに理論を教えてもらってからいろいろ試したからね。それでだよ」
はにかむように微笑むと、咲耶はコンクリートの床の上にレジャーシートを広げた。
どうやら最初からここで食べるつもりでいたらしい。
二人は並んで腰を下ろすと、サンドイッチの包みを開いた。
久しぶりの兄妹二人での食事だったが、どうにも物足りない気がするのは軽食のせいだろうか。
昼食を済ませた二人は午後からも少しの間だけ一緒に行動することになった。
色とりどりに装飾された校舎。あちこちから流れてくるBGMや人々のざわめき。
そのすべてが今日が特別な日であることを物語っている。
人ごみを避けて幾つかのコーナーを回った後、まことは不意にその異変に気づいた。
……咲耶がいない。
人ごみではぐれてしまったのか、いつのまにかすぐ隣を歩いていたはずの妹の姿が見えなくなっていた。
慌ててあたりを見まわすが、それらしい姿はどこにも見当たらない。
と、そのとき、人ごみを掻き分けて一人の少女がまことに近づいてきた。
咲耶ではない。だが、まったく知らない顔というわけでもなかった。
髪は深い紫色のロングヘア。その顔立ちは日本人形のように整っている。
夏服の胸元のリボンは二年生の色だったが、冷たい無表情のせいで妙に大人びて見える。
「珍しいな。君がそっちの格好をしているなんて」
「わたしとてこの学園の生徒です」
「授業にも出ていないのにか?」
「他人のことを言える立場ではないと思いますが」
しばし睨み合う二人。
「まあ、いいでしょう。今日はあなたと言い争うために来たのではないのですから」
「勧誘ならお断りだ。何度もそう言っているだろう」
まことはうんざりした様子でそう言った。
「頑固な方ですね。ですが、これをご覧になってもまだ同じことが言えますでしょうか」
少女がぱちんと指を鳴らす。刹那、少女の背後の空間が陽炎のように揺らめいた。
「なっ!?」
まことは思わず目を疑った。
そこに映し出されていたのは十字架に張りつけられた妹の姿だった。
「咲耶になにをした」
「何もしてはいません。ですが、あなたのお返事次第では……」
三流悪役のような台詞を淡々とのたまう少女をまことは正面から睨みつけて言った。
「咲耶を返せ。今すぐに」
「ですから、あなたのお返事次第だと申し上げたはずです」
「…………」
「印鑑を持って第二校舎の屋上へおこし下さい。お返事はそちらでお伺いいたします」
そう言うと、少女の姿はふっと虚空に溶けて消えた。同時にその背後の幻影も消える。
結界が張られていたのか、二人のやり取りを聞いていたものは誰もいなかった。
まことは踵を返すと、すぐに指定された場所へと向かった。
* * * * *
――午後の一番暑い時間帯。ほとんどサウナ状態の屋上で咲耶は張り付けにされていた。
両手両足。首と腰にまで拘束具をはめられ、まったく身動きがとれない。
気の狂いそうな暑さの中、自分をこんな目に合わせている張本人は顔色一つ変えることなく、無言で十字架の側に佇んでいる。
「ねえ、悪いことは言わないからすぐにわたしを放して謝ったほうがいいよ」
咲耶は親切心から何度も警告を繰り返しているのだが、それに応じる気配すらない。
「これって立派な犯罪だよ。お巡りさんに逮捕されちゃうよ」
「ご心配いただかなくとも、警察は動きませんよ。そういうことになっているんです」
「だからって、こういうことしていいってことにはならないでしょ!?」
「苦情はあなたのお兄さんに申し立てなさい」
「お兄ちゃんに?」
「そうです。あの方が悪いのですよ。さっさと観念して我々に協力していただければ……」
少女がそこまで言ったとき、不意にその背後に人影が現れた。
人影は無言で少女の首を掴むと、片手で宙に持ち上げた。
「くっ……」
「後ろががら空きなんて君らしくないな。それともまさか本気で俺が真面目に交渉に臨むとでも思っていたのか」
あのとき、あの少年が襲撃してきたときと同じ、冷たい声でまことは言った。
「どうして……」
「拘束具を外せ。このまま絞め殺されたくなかったら大人しく従うんだ」
少女の問いには答えず、まことは脅迫じみたことを言いながら首を絞める手に力を込める。
表情こそいつもの無表情だが、彼は本気だった。目がマジなのだ。
少女は頷くしかなかった。苦しげに呻き声を漏らしながら微かに首を縦に動かす。
それを確かめると、ようやくまことは少女を床に下ろした。
「げほっ、べほっ、……ひどいじゃありませんか。いきなり後ろから首を絞めるなんて」
「自業自得だ。さあ、さっさと咲耶を自由にしろ」
言われるまま、少女は咲耶から拘束具を外した。
長時間拘束されていたというわけではないのだが、意外にも咲耶の足元はふらついていた。まことの手を借りて何とか転倒は免れたものの、気分はかなり悪い。
日射病にでもなってしまったのだろうか。意識もぼーっとして焦点が定まらない。
「顔色が悪いな。医務室で休んだほうがいいんじゃないか?」
「そうする……」
頷くと、咲耶はふらつく足取りで医務室へと向かった。
その体を支えてやりながら、まことはちらりと少女を一瞥する。
少女は一瞬戸惑ったような様子を見せたが、慌てて二人の後を追った。
* * * * *
医務室の主に診てもらった結果、咲耶はやはり日射病になっていた。
少し休んでいればよくなると言われ、咲耶はベッドに横になった。
数日前、ルビッカと出会ったときのことを思い出す。
あれから驚異的な早さで修復作業が行われ、医務室はすっかり元通りになっていた。
「とりあえず、大したことなくてよかったな」
傍らの椅子に腰掛けてまことは咲耶に話し掛けた。
その声はもういつものまことのものに戻っていて、咲耶は少しホッとした。
あんな恐ろしい兄の姿なんて、たとえ自分のためでも見たくなかった。
無表情で無愛想でも本当は優しい不器用ないつものお兄ちゃんでいてほしい。
わたしの大好きないつものお兄ちゃんで……。
「それにしても、正直驚いたぞ。まさか、君があんな手段に出てくるなんて」
まことは自分の隣に所在なげに佇む少女へと目を向けた。
藤宮グループの会長秘書にして裏のナンバー2。確か、名は紫藤かずみといったはずだ。
だが、今の彼女はそんな肩書きが嘘であるかのようにごく普通の少女に見えた。
自分を脅迫してきたときの冷然とした雰囲気も今は微塵も感じられない。
こんな彼女を見たのは初めてだった。
「乱暴なことをしたのはお詫びいたします。ですが、我々にももう時間がないのです」
かずみは必死の形相でまことに縋りついてきた。
少女の柔らかい身体が押しつけられ、まことは思わずどきりとした。
恋人がいるとはいえ、女性に対する免疫はまだ弱いのだ。
それに、恋人のいる身としてはこの状況は非常によろしくないのではなかろうか。
背中に冷たい視線を感じて、まことは慌ててかずみを引き離した。
恐る恐る振り向くと、ベッドの上に上体を起こして咲耶がこちらを睨んでいた。
「あ、あのな咲耶。誤解だ。俺は別に……」
「……浮気者」
ぼそっと呟くと、咲耶は不意に二人の前から姿を消した。
魔法を使ってどこかへ転移したのだろう。それにしても……。
「あいつ、日射病で弱ってたんじゃないのか」
* * * * *
紫藤かずみは確かに美しい少女だった。
同性の咲耶から見ても思わず見惚れてしまうほどに彼女の容姿は魅惑的だ。
しかし、まことにはユリナがいるのだ。聞けば、将来を誓い合った仲だという。
もう少し自分の立場というものを自覚してもらいたいものだと咲耶は思う。
ぶつぶつと文句を言いながら三つほど空間を飛び越えたところで、咲耶は何かにぶつかって転んだ。
「あいたたた……。もう、何……」
打ちつけた腰をさすりながら立ち上がると、そこは咲耶の知らない部屋だった。
ただっぴろい半球状の空間の中央に見たことのない巨大な機械のようなものが一つだけ。
床一面に何やら奇妙な模様が刻まれていたが、その意味も咲耶にはわからない。
人の姿はなく、ただひたすらにそれの発する低い振動音だけが広大な空間を支配していた。
転移した距離からしてここはまだ学園の敷地内のはずだが、こんな場所があるなんて聞いたこともなかった。
「そこで何をしているの」
不意に背後から掛けられた声に咲耶は思わずどきりとした。
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある女性だった。
どうやら向こうもこちらに気づいたらしい。女性は驚いた様子で咲耶に近づいてきた。
「髪、染めたのね」
「え、ああ」
言われて咲耶は自分が美雪の力を借りたままでいることに気づいた。
体が彼女の影響を強く受けているとき、咲耶の髪は大抵真紅に染まっていた。
これは美雪の髪が赤いからだという。
最初のうちは驚いたが、慣れてしまえばどうということもない。
ただ、誰かに見られてしまった場合に説明するのは大変だった。
本当のことを話すわけにもいかず、とりあえずいつものように適当にごまかすことにする。
だが、その前にあかねのほうが口を開いた。
「学園祭は楽しんでいるかしら?」
「え、あ、はい」
「ここは毎年嗜好を凝らしているからわたしも楽しみにしているのよ」
「わたしは今年が初めてなんですけど、皆すごく盛り上がってますよね」
「夜のパーティーはうちからも出資しているのよ。うんと豪華にしたからそっちも楽しんでいってちょうだいね」
そう言うとあかねはくるりと踵を返し、手近な壁へと歩み寄る。
「あ、あの……」
「ここにはあまり近づかないで。これは危険なものだから」
最期にそれだけ言い残すと、彼女は壁の向こうへと消えた。
ちらりとあれのほうを見る。
およそ現代のいかなる機械にも似ていないそれはいかにも危険な感じがした。
急にそれが不気味なものに思えてきて、咲耶は慌ててその場を立ち去った。
* * * * *
次に転移した場所は図書館だった。
学園中が祭で盛り上がっている中、ここだけは水を打ったように静かだった。
祭は嫌いではないが、あんなものを見た後では喧騒に身を鎮める気にもなれなかった。
咲耶は思い出していた。
あのホールにあった装置。あれが何であったかを彼女は知っていたのだ。
おそらく、この学園はあれを収める器として作られたのだろう。そう考えると、強力すぎる結界で守られていることにも納得がいく。
あれはこの世界のあり方に関るもの。そして、その力を司っていたのは……。
「……お母さん」
ラグナロクのもう一つの分身、この世のすべてを浄化する力――。
神代はるかはそれを司る巫女だった。
それは、誰も知るはずのない事実。
そして、それこそが彼女が殺されなければならなかった理由だった。
彼女の存在はこの世の歪み、狂気に属するものたちにとっては脅威以外の何物でもない。
彼らがその存在を知れば、抹殺しようとするのは当然だった。
そこで、巫女を守るためのチームが結成された。
その名はガーディアンフォース。
精鋭ばかりを集めた僅か数名のチームだったが、その強さは英国SASにも匹敵すると言われていた。
あのときだって、彼らがついてさえいれば、はるかは死ななかったかもしれない。
咲耶は頭を振った。
そんなふうに考えてはいけない。誰かを責める資格なんて自分にはないのだから。
* * * * *
まるで街の夏祭りにでも来ているような気分だった。
グラウンドには無数の屋台が建ち並び、あちこちから食べ物の匂いが漂ってくる。
輪投げに射的に金魚掬い。占いや写真撮影のコーナーもある。
もう間もなく閉会であるにも関らず、どのコーナーも人で溢れかえっていた。
だが、そのどこにも彼女が探している人物の姿はない。
ユリナは初めて来た学園という場所で人の波に呑まれながら途方に暮れていた。
* * * * *
同じ頃。
学園の時計台に腰掛けてルビッカは人の往来を眺めていた。
その手にはリンゴ飴が三本。出掛ける前にユリナからもらった小遣いで買ったのだ。
懐かしい味を口一杯に頬張りながらふと彼女はしばらく前まで行動を共にしていた少年のことを思い出す。
――彼はなぜ咲耶を襲ったのだろう。そんな必要なんてもうなくなったはずなのに。
命令が伝わっていないのかとも思ったが、あの組織に限ってそんなこともないだろう。
とすれば、今の彼は独断で動いていることになる。
勝手なことをすればただでは済まないとわかっているはずなのに。
思えば彼のことは何も知らなかった。
彼とは今回の任務のために組まれたにわかコンビだったのだ。
お互い必要以上に口は利かなかったため、それ以外の関係になることもなかった。
おかげで敵に回ったところで何の感慨も抱かない。
次に出会ったときには反逆者として彼を処刑しなければならなくなるだろうけれど、きっと自分は黙ってそれを執行する。
わたしはただの人形だから。ただ与えられた命令を忠実にこなすだけ。
それはとても悲しいことだけど、任務についている間はそれでいい。
すべてを終わらせ人に戻れば、ちゃんと帰る場所もある。あの人がそれを与えてくれたから。
……だから、わたしはあの人の大切なものを守るために戦う。それだけだ。
不意にすぐ側で鐘が鳴った。
ルビッカはユリナに言われたことを思い出して慌ててその数を数えた。
「三、四、五……」
――鐘が六つ鳴ったら北に見える大きなドームの前に来るように。
「六つ。……もう行かなきゃ」
リンゴ飴の残りを口の中で粉砕すると、ルビッカは時計台からドームの前へと転移した。
* * * * *
近くで見るとその巨大さがよくわかる。
天領学園の体育館はちょっとしたスタジアムほどの広さを持つ半球状の建物だった。
普段は集会場などとしても使われるその場所は今日も大勢の人々で賑わっていた。
皆これから行われるパーティーに参加するために集まってきたのだ。
その中にはもちろんまことや咲耶の姿もあった。
パーティーは学園祭の成功を祝して行われるものだが、実際には祭の延長線上にあるようなもので、学園は祭を見にきた人々にも参加を認めている。だからまことはユリナとルビッカを呼んだのだ。
「結局、現地集合って形になっちゃったわね」
グラスを傾けながらユリナが言った。
「まあ、こんなに混雑してるんじゃしかたないさ」
「皆楽しそう……」
あたりを見まわして咲耶が言った。
まことたちはクロスの掛けられた円形のテーブルの一つに四人でついていた。
振舞われた豪華な料理の数々に思い思いに箸をつけながら他愛のないおしゃべりで盛り上がっている。
他のテーブルも似たような状態で、会場はこの上なく賑やかだった。
* * * * *
最初の異変が起きたのはそれから数分の時が過ぎた頃だった。
あるいははるかな昔、神が最初に世界のあり方を決めたときから既にそれは始まっていたのかもしれない。
しかし、パーティー会場に集まった全員を混乱に陥れるには十分だった。
突然何かが割れるような音がしたかと思うと天井のすべての照明が一瞬消え、また点いた。どうやら何かの拍子に停電となり、予備電源に切り替わったらしい。
「おい、今のは何だ」
「停電?」
人々が口々に騒ぎ出す中、何事かと咲耶は不安そうな表情をする。
係員が壇上のマイクを取って何でもないことを伝えていたが、そんなことくらいで会場は静まったりはしない。
咲耶の不安も消えなかった。
……空気が変わっている。すごく異質で嫌な感じだ。
他の人間が気づいているかどうかはわからないが、咲耶は確かに感じていた。
「ねえ、お兄ちゃん。わたし、ちょっと外の空気を吸ってくる」
「こんなときにか?」
「気持ちがわるいの。お願い、すぐ戻るから」
「しかしだな……」
困ったような顔をするまこと。そのとき二人の間に座っていたユリナが席を立った。
「わたしも一緒に行くわ。それならいいでしょ?」
「ユリナ」
「わたしもちょうど涼んでこようかと思ってたところだし、ね」
「……わかったよ。けど、なるべく早く戻るんだぞ」
まことは押しきられる形で渋々承諾した。
「わたしも行く」
ルビッカが少々遠慮がちに手を挙げた。
「君も?」
「気になることがあるんです。ちょっと外の様子を見てきます」
そう言ったルビッカも立ち上がり、女性三人は連れ立って体育館を出ていった。
気がつくとまことの周りには誰もいなくなっていた。
人の子どころか、猫の仔一匹見当たらない。
再び点ったはずの照明も今は完全に消えており、館内には薄い闇が立ち込めていた。
「……結界か」
ぼそりと呟いたまことの声に闇が微かにざわめいた。
……仕掛けてくる。
そう直感した瞬間、闇が一気に濃度を増す。
そこに潜む僅かな気配、殺気をまことは見逃さなかった。
闇から繰り出された不可視の攻撃をすんでのところで回避した彼はすかさず反撃に出た。
同じく不可視の衝撃波をこちらは立て続けに三発放つ。
残っていた料理がテーブルごと吹き飛び、砕けたグラスの中身が宙に飛び散った。
手応えはない。だが、狙いを外したというわけではなかった。
飛び散ったジュースが闇に溶け込んでいた相手にかかり、その姿を浮かび上がらせていた。
「姿を現したらどうだ。どうせそれじゃ意味がないだろう」
挑発すると意外にも敵はあっさりと姿を見せた。
襲撃者は男だった。
昔のホラー映画に出てきた吸血鬼のような風貌をしているが、マントの半分がオレンジ色に染まっているのでまったく絵になっていなかった。
それでもまことは油断なく様子を窺う。相手は魔族、それもかなりの使い手と見受けられる。
本気になれば倒せないこともないが、無益な争いは出来れば避けたかった。
男はまことにゆっくりと近づきながら無造作に光弾を放った。
まことはそれを余裕で回避しつつ叫んだ。
「俺はあんたに襲われる覚えはないんだけどな」
「少し試させてもらうだけだ」
そう言って男は再び手の中に光弾を出現させる。
「何を試すっていうんだ。試される覚えもないぞ」
「おまえが本当にヘリオスの名を継ぐに相応しいものであるかどうかをだ」
男が光弾を放ち、まことがそれを迎撃する。
まことは考えた。
襲撃者なら撃退しても正当防衛で罪にはならない。例え相手が異界の存在であってもだ。
しかし、男は自分を試すといった。
ならば先方の納得のいく力を示せばそれでいいのではないだろうか。
まことは一つ頷くと、呪文の詠唱を始めた。
男はそれを待っていたかのように動きを止め、じっと彼の様子を眺めている。
太古の言葉がまことの口の中でゆっくりと紡がれ、一つの理を編み上げていく。
それに呼応するかのように、力が彼の周囲に集まっていった。
* * * * *
夕闇に染まった中庭に吹き抜ける風が心地よい。
館内の騒ぎはまだ続いているようだったが、厚い扉と壁に阻まれているためか随分と遠くに聞こえる。
咲耶はユリナと並んで芝生の上に腰を下ろしていた。
一緒に出たはずのルビッカの姿はそこにはない。
誰かを探しているようだったが、詳しく聞く前に彼女はどこかへ行ってしまった。
二人ともしばらく無言だったが、やがて咲耶の方から口を開いた。
「あの、ユリナさんはどうしてお兄ちゃんのことを好きになったんですか?」
「んー、どうしてかしら」
聞かれてユリナは顎に人差し指を当てて考えるポーズを取った。
「理由なんてわからない。出会ったときからすごく惹かれていたのよ」
「一目惚れですか?」
「そんなところ」
ユリナは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「でもね、わたしはなかなか告白出来なかった。ふられるのが怖かったのね。そうしたら彼のほうから言ってきたの。俺と一緒に行かないかって」
それを聞いて咲耶は驚きと感心の混じったような声を漏らした。
「へぇ、お兄ちゃんもやるときはやるんだ……」
「嬉しかったわ。でも、わたしはすぐに返事をすることが出来なかった。迷っていたわけじゃないの。ほら、今はもう二つの世界の間を行き来するのが難しくなっているでしょう?だから、一緒に行けばきっと二度と戻れない。全然知らないところへ行くわけだからそれなりの覚悟を決めなきゃいけなかった。結局は一緒にいたい気持ちのほうが強かったんだけどね」
そう言うとユリナは立ち上がった。
「さあ、もう戻りましょう。あんまり遅いと怒られちゃうわ」
言われて咲耶も立ち上がる。
あの嫌な感覚はまだ消えていなかったものの、夜風に当たったおかげで幾分か楽にはなった。気になっていたことも聞けて少しだけ満ち足りた気分で彼女が館内に戻ろうとしたときだった。
不意にどこかで爆発音が上がった。割りと近く、一瞬青み掛かった閃光が見えた。
先に歩き出していたユリナが驚いて振り返る。
途端に彼女は悲鳴を上げた。
咲耶が蒼白い顔をして蹲っていた。片手で胸を押さえ、苦しげに息を吐いている。
その背中では彼女の翼が激しく明滅を繰り返していた。
ただならぬ様子にユリナは慌てて咲耶に駆け寄った。
「どうしたんですか!?」
偶然側を通りかかった美鈴が青い顔で駆け寄ってきた。
「わからない。急に苦しみ出して……」
狼狽した様子で答えるユリナ。
そのとき咲耶が喘ぐような声で何事か呟いた。
「……ちゃん……お兄ちゃん……」
「まことを呼んでくるわ。天野さんはここにいてあげて」
叫ぶようにそう言うとユリナは体育館に向かって駆け出した。
同時に体育館の扉が破裂するように開き、中から人が雪崩のように溢れ出す。
「きゃっ!?」
ユリナは慌てて横に跳躍して逃れた。
どうやら中にいた全員が一斉に避難しようとしてこうなったらしい。
人の雪崩が去ったのを見計らってユリナは恐る恐る中の様子を窺った。
漆黒の空間にまことと見知らぬ男が対峙していた。
まことはその手に一振りの剣を掲げて何事か呟いている。
「あの剣……まさか、太陽の剣!?」
ユリナはその剣に見覚えがあった。
――かつて、一度だけ世界が危機に陥ったとき、混沌の化身を打ち滅ぼしたとされる剣。
ヘリオスの魂をその身に宿したもののみが扱うことの出来る聖剣だ。
本人はあまり意識していないようだが、その剣を持っていることこそ彼がヘリオスの転生者である何よりの証だった。
「さあ、これでわかっただろう。何なら一撃食らってみるか?」
「いや、遠慮しておくよ」
男は戦闘の構えを解くと、満足げに笑った。
「まこと!」
ユリナが名を呼びながら駆け寄ると、まことは剣をしまって振り向いた。
男の存在に気を配りつつ、彼女は彼の耳元に囁く。
「……わかった。すぐ行く」
そう答えてまことは男の方に向き直る。
「あんた、俺を試すって言っただろ。もし、この剣だけで納得出来ないのならこれから起きることを見届けるといい。尤も、俺はあいつの書いたシナリオを再現するつもりはないから結末はだいぶ変わるかもしれないがな」
それだけ言い残すとまことは踵を返して駆け出した。慌ててユリナも後を追う。
二人の背中を見送りながら男は微かに笑っていた。
「これでよかったの?」
背後から尋ねる女の声に振り返ると、そこに紺のスーツ姿の女性が立っていた。
男は軽く肩を竦めて笑った。
「せめて、名乗ってもよかったんじゃないかしら。これが最後の機会かもしれないのに」
「今更言えた義理じゃないよ。それに、もう必要ないさ。父親なんてね」
男は自虐的な笑みを浮かべてそう言った。
「これからどうなさるおつもり?」
「手を出す権利はないからな。せめて、ここで最後まで見届けさせてもらうとするよ」
そう言うと男はマントを翻して歩き出した。
* * * * *
学園内は今や大混乱に陥っていた。
先程の爆発とともに学園内のあちこちに無数の魔物が出現したのだ。
――その数、およそ五十。
現在、学園警備のために来ていた警察に生徒会の治安部隊も加わって掃討戦が行なわれているが、敵はかなり手ごわく苦戦しているようだ。
まことはユリナとともに魔物を撃退しつつ、咲耶の元へ急いだ。
彼女はこの騒ぎに巻き込まれてどこかへ移動してしまったらしく、中庭にはいなかった。
体に異常を来たした咲耶に付き添っていた天野美鈴の姿もそこにはない。
二人で魔物から逃げているのか。だとしたら厄介だ。
この広い学園内のどこをどう探せばいいのかまるで見当がつかない。
本来なら気配を探査して居場所を突き止めるところだが、それも今は使えない。あちこちで魔法合戦をやっているせいで大気の状態が不安定になっているのだ。
仕方なく二人は走っていた。とにかく手当たり次第に探すしかない。
と、角の向こうから悲鳴が聞こえてきた。
「咲耶!?」
「急ぎましょう」
二人は減速しないまま角を曲がった。
果たしてそこに咲耶はいた。
翼を展開した状態で苦しげに肩で息をついている。
美鈴が拳銃を構えつつその体を支えている。
そしてあの少年――フェンリルが二人の少女を見下ろして笑っていた。
「……お兄、ちゃん……」
咲耶が気づいて苦しげに呻いた。
「咲耶!」
「やあ、遅かったね。退屈だったから少し遊ばせてもらったよ」
フェンリルが陽気な口調でそう言った。
「このガキ!」
「おっと、動かないで。
フェンリルが咲耶に掌を向けた。
「今からこのおねえちゃんの中に封印されているものを呼び出すところなんだ」
「やめろ、そんなことをしたらこの世界はたちまち滅ぼされるぞ」
「結構じゃないか。こんな狂った世界はいっそ滅びてしまったほうがためだよ」
「誰のためだって言うんだ。世界が滅びるということは、そこに存在しているものたちも滅びるということだ。すべてを無に還すつもりか!?」
「ああそうさ。そして、新しい世界を作るんだ。誰も傷つくことのないユートピアをね」
言葉とともにフェンリルの手が光を放つ。
それに呼応するかのように咲耶の翼が明滅を繰り返し、そこからどす黒い靄を立ち昇らせた。
「あぁっ、あぁぁぁぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「やめろ、やめるんだ!」
咲耶が狂ったように泣き叫び、それを押さえ込むようにまことが叫んだ。
「もう誰にも止められない。神の遺産は目覚めたのさ。この世を滅ぼす狂気となってね」
嬉々として謡うように言い放つフェンリル。靄はその手に集まっていた。
やがて靄が完全に抜けきると咲耶は糸の切れた操り人形のようにその場にへたりこんだ。
ユリナが咲耶に駆け寄り、まことはフェンリルに飛び掛った。
至近距離から巨大な光球を放つ。
だが、それはフェンリルの周囲で黒くスパークしている靄に触れた瞬間、あっさり砕けて宙に散った。
「無駄無駄、そんなものは今の僕には通用しないんだよ」
嘲笑を響かせつつ、フェンリルははるか上空へと舞い上がる。
その背には漆黒の翼の幻影が広がりつつあった。
彼がどこへ行こうとしているのか、聞くまでもなくまことにはわかっていた。
ここにはもう一つの分身もあるのだ。
あれまで取りこまれてしまったら本当に世界を滅ぼされかねない。
まことは何とか阻止したかったが、今は倒れた咲耶を助けるほうが先だった。
「くっ、化け物が……」
まことは吐き捨てるように呟くと、敵の飛び去った空を睨みつけるのだった。
* * * * *
――ただ、一面の闇……。
冷たくもどこか懐かしい。そんな暗闇の中を咲耶はぼんやりと漂っていた。
まるで重力から解放されたように体が重さを感じない。
誰かが呼んでいる。遠く、それともすぐ近くだろうか。
……わからない。
……わたし、死んじゃったのかな。
いいえ、あなたはまだ生きていますよ。
美雪の声がした。はっきりと、今はその姿も見える。
でも、すごく軽いの。まるで体が無くなっちゃったみたい。
それはあなたの中にあったものが抜け出てしまったからです。
……カオティック・ロード。
その名を口にした途端、急に体が重くなった。何かに絞めつけられたような感じもする。
うっ、な、何で……。
ここはあなたの精神の領域。その体はあなたの心なんです。
わたしの、心……。
あなたは今とても後悔しているでしょう。それがあなたの心を重くしているんです。
言われて咲耶は納得した。どうしてあんなものが自分の中にあったのか、それはわからない。ただ、それを封印しておくのが自分の役目だったことは何となく知っていた。
翼を、過去の記憶を捨ててからずっと忘れていた。
それですべて終わったのだと思っていたのだ。
だが、記憶は目覚め、そして天使の翼は今ここにある。
……決着をつけないと。
過去に訣別し、新しい一歩を踏み出すためにもわたしはやらなければならないのだ。
決意を固めた途端、咲耶は全身に力が漲ってくるのを感じた。
気がつくと、医務室のベッドに寝かされていた。
これで三度目、二度あることは本当に三度あるものらしい。
閉じられたカーテンの向こうではまこととあかねが何やら言い争っているようだった。
気づかれないようにそっと上体を起こす。と、そのとき頭の中で美雪の声がした。
……行くつもりですか。
もう繰り返すのは嫌だから。後悔なんてそう何度もするものじゃないし。
……わかりました。
ごめんね、危険なことにつき合わせちゃって。
わたしはあなたと一緒ならどこへでも行きます。最初にそう決めていましたから。
美雪の少しはにかんだような笑顔が脳裏に浮ぶ。
「……ありがと」
小さく声に出してそう言うと、咲耶はそっと窓枠に足を掛けた。
――その夜、医務室の窓から一人の天使が翼を広げて飛び立った。
あまりに優美なその姿を見ていたものは誰もいない。
* * * * *
眠りの丘は今夜も静けさに満ちていた。
学園での出来事は既にマスコミによって伝えられ、近隣の住民たちは避難を始めている。
警察や消防も出動し、町全体が騒然とした雰囲気に包まれる中、ここだけはいつもと何ら変わらない。
いつもの巨木に背を預け、まことは静かに目を閉じている。
その手には古ぼけたフルートが握られており、そこから紡ぎ出される物悲しい音色が夜風に乗って森へと流れていた。
彼はこの場所が好きだった。よく一人で来ては物思いにふけっていた。
あるいは誰にもらったかはもう忘れたこのフルートで、ただ一つの曲を奏でるか。
とにかく誰かと必要以上に時を共有することはしなかった。
同族に強制された妹とは違い、彼は自らの意志でそうしていた。
孤独だが、傷つけることも傷つけられることもない。
彼は優しすぎるから、自分が傷つくよりも誰かを傷つけてしまうことのほうが恐ろしかった。そんなことになるくらいなら、自分は独りでもいい。ずっと、そう思っていた。
あの人に出会うまでは……。
ふと近づいてくる人の気配に気づいてまことは顔を上げた。
「ここにいたんだ」
すぐ側にユリナが立っていた。
「俺を探していたのか?」
「ちょっとお話したいなって思って」
そう言うとユリナはまことの隣に腰を下ろした。
「続けて。あなたの演奏、久しぶりに聞かせてほしいの」
言われるままにまことはフルートを吹き続けた。
ユリナは黙ってそれに耳を傾けている。
やがて演奏が終わると、まことも巨木の根元に腰を下ろした。
「どうだった?」
「ちょっと複雑な感じ、かな」
「そうか」
つい素っ気無く言ってしまう。いつものことだが、つくづく無愛想だなと自分でも思う。
「それで」
「ん?」
「俺と話をしたかったんだろ。何か話題はないのか?」
「うーん、そうねぇ……。あ、そうだ」
何を思い出したのか、彼女はぽんっ、と手を打った。
「天野さんが怒ってたわよ。こんなときくらい妹の側にいてやれないのかって」
それを聞いてまことは思わず苦笑した。
「あいつもお節介だな。もうそんな必要もないのに」
「本当にそうかしら?」
「あいつが俺を頼るのはまあ、昔からの癖みたいなものだからな。それに……」
まことは何となく空を見上げて言った。
「最後の夜が明ける前にもう一度きておきたかったんだ。初めて君と出会ったこの場所に」
「最後の夜って、それじゃあ……」
「奴は今夜のうちにもう一度仕掛けてくるはずだ。そのときすべてを終わらせる」
「…………」
ユリナは無言でまことをみつめた。
まこともそれをみつめ返す。
こうして見ていると、本当に美しいと彼は思う。
抜群のプロポーションを誇る体も整った顔立ちも間違いなく一級品だ。
尤も、彼が惚れたのはそんな外面の部分ではなかった。
自分といるとき、彼女は本当に嬉しそうに笑ってくれる。
誰かを幸福にする力なんて自分にはないと思っていた。
あるのは悲しみや憎しみしか生み出さない呪われた力だけ。
だからまことは自分のことが嫌いだった。
だが、それが誤解であったことをこの少女は教えてくれたのだ。
初めて彼女の笑顔を見たとき、まことは本気で愛しいと思った。守りたいと思った。
それを愛と呼ぶのなら、正しくまことは如月ユリナという女性を愛していた。
彼女とこの世界で生きていくただそのためだけに彼は今、その力を解き放とうとしていた。
* * * * *
まことたちが医務室に戻ってきたとき、場の緊張は一層高まったものになっていた。
フェンリル、奴がいよいよ総攻撃を仕掛けてきたのだ。
スピーカーからは避難勧告をするかずみの声が流れていた。
何人もの生徒が廊下を慌しく行き交い、生徒会治安部隊の皆さんが緊急避難用シェルターへの誘導を行なっている。
まことが医務室に入ろうとすると、中から美鈴が血相を変えて飛び出してきた。
「あ、先輩。今までどこ行ってたんですか!?」
彼女は飛び掛らんばかりの勢いでまことに詰め寄った。
「ど、どうしたんだ?」
「咲耶が、咲耶がいなくなっちゃったんです!」
美鈴は今にも泣き出しそうな様子でそう言った。
だが、まことは対照的に落ち着き払っていた。
「ユリナ、俺たちも行くぞ」
「わかってる」
まことの言葉にユリナも頷き、二人は美鈴をその場に残して駆け出した。
* * * * *
今や戦火は街中に広がっていた。
無数のブラッドギアを相手に、警察と自衛隊の混成部隊が重火器を手に応戦している。
その勝負は一進一退で、数の優位を生かそうとする魔物を人間たちが火力にものを言わせて一気に駆逐しようとしていたのだが、耐久力の高いものにはあまり効果がないようで中々数を減らすことが出来ずにいた。
だが、戦っているのは何も公務員ばかりではない。
ボクサーやプロレスラーなどはこのご時世に携帯を許された護身用強化グローブやボディーブーストを装備して果敢に魔物たちに挑んでいった。
忘れられた剣の閃きが、大地を砕く鉄拳が、次々と脅威を退けていく。
戦う力を持たないものたちも後方支援に加わって必死に戦線を支えている。
その中には天領学園の生徒も多くいた。
生徒会の指示の下、実習用の白衣を着た医務委員が救急キッとを手に負傷者の間を走り回り、前線から撤退してきた人たちにドリンクを手渡している。
中には大人たちに混じって前線に出ているものもおり、そこに富岡さとみの姿もあった。
美鈴に勝るとも劣らない戦闘能力を誇る彼女である。
魔力を纏ったその拳は確実にブラッドギアを粉砕し、数を減らしているようだった。
まことたちはそんな彼女たちを援護しつつ、この街の狂気の中心へと向かった。
旗色は今のところ人間側のほうがいいようだが、それもフェンリルが出てくれば一気に逆転されてしまうだろう。
被害を最小限に押さえるためにもそうなる前にこちらから奴を叩いてしまう必要がある。
あかねはラグナロクのもう一つの分身、コスモリヴァイアを起動させて対抗すると言っていたが、あれは四百年も前に機能を停止してから一度も動かしていなかった代物だ。はっきり言ってあてにならない。
そうでなくとも、あれとは自分たちの手で決着をつけなければならないのだ。
まことは走りながら空を見上げた。
彼方の空に閃光が見えた。魔法の光、もう戦いが始まっているのだ。
「転移する。掴まれ!」
叫びながら差し出したまことの手をユリナが強く握り締める。
まことが呪文を唱え、瞬く間に二人ははるか上空へと転移した。
そこに咲耶がいた。純白の翼を広げ、じっと前方を見据えている。
その視線の先にはフェンリルがいた。
背後に邪悪な気を放つ何かを従え、余裕の態度で咲耶を見下ろしている。
対する咲耶は片手で胸を押さえ、苦しげに喘ぐように息をしていた。
どちらが優勢なのかは一目瞭然だった。
「咲耶!」
まことが叫んだ。
「来たか。だが、だからといって何が変わるわけでもないだろうがな」
フェンリルの嘲笑が大気を震わせた。
「ほう、言ってくれるじゃないか」
「スクラップ同然のカオスを手に入れたくらいでいい気にならないでもらいたいわね」
まずはそれぞれ言いたいことを言っておく。二人とも魔法を使って空中に浮遊していた。
「お兄ちゃん、それにユリナさんも!?」
「咲耶、おまえは下がってろ。後は俺たちでやる」
「そんな、ダメ。そいつ、ものすごく強いの。普通の魔法が全然効かないんだから!」
「そんなことは百も承知だ」
「だったら」
「いいから行きなさい。年長者の言うことは聞くものよ」
「でも……」
「いいから任せろ。そのかわり、おまえは下の連中を助けてやってくれないか」
「……わかった」
渋々といった感じで頷くと、咲耶は地上目掛けて降下していった。
「さてと、これで心置きなくやり合えるな」
不敵な笑みを浮かべてまことが言った。
「まったく人間ってのはバカだね。下の連中だってそうだ。大人しくしていれば苦しまずに済むのにさ。それをあんなふうに抵抗したりして」
「死ぬのは誰だって嫌なのさ。それに、足掻けばまだ生きていられるかもしれない」
「それが愚かだっていうんだよ!」
フェンリルが吠えた。
それに呼応するかのように彼の背後で何かが光り、そこから伸びた無数の黒い帯がまことたちに襲いかかる。
二人は左右に別れてそれをかわすと、そのまま反撃に出た。
炎の槍と冷気の渦。僅かに時間差をつけて放たれた二人の魔法が左右からフェンリルを襲う。
「無駄だよ。言っただろ、そんなものは通用しないってさ」
言葉とともにフェンリルの周囲で黒い靄がスパークする。
魔法はまたそれに阻まれて無二還された。
「くっ、やはりダメか」
「何か切り札を持っているんだろ。さっさとそれを出しなよ」
まるでお菓子のおまけについている玩具を開ける子供のようにフェンリルの声ははしゃいでいた。
「……後悔するぞ」
どこか押し殺したような声でまことは言った。
そして、その彼の言葉通り、フェンリルは後悔することになるのだった。
* * * * *
その頃、地上ではさとみのマージフィストが魔物の最後の一匹を粉砕したところだった。
「ざっとこんなもんよ」
額の汗を拭いながらさとみが周囲にガッツポーズを決めてみせる。
「気をつけて。まだ一番強いのが上にいるの」
怪我人の手当てをしながら咲耶が言った。
上空ではまことたちがまだフェンリルと戦っているはずだ。彼らが負けるとは思えないが、それでも心配になる。
敵の手にした力は強大で、それを魔力として振るった場合にどれほどの威力となるのか計り知れないのだ。
「お兄ちゃん、ユリナさん。どうか……どうか無事に帰ってきて……」
ただそれだけを祈り、天を仰ぐ咲耶。
その隣ではさとみが空中戦では参加のしようがないと嘆いていた。
* * * * *
フェンリルの咆哮とともに混沌の渦が唸りを上げた。
そこから放たれた漆黒の火球は虚空に浮ぶ人影を捉えて炸裂する。
もう何度魔法を放ったかわからない。しかも、そのどれもがかすっただけで吹き飛ぶほどの威力を持っていた。
だが、何度も直撃を受けたはずの彼はまるで無傷だった。
直前で避けたのか、あるいは魔力で相殺したのか。いずれにしてもこちらの攻撃がまったく通用しないことには変りない。
今も彼は平然とした態度で虚空に佇んでいる。
その手にはあの伝説の剣――ヘリオスブレイドがしっかりと握られている。
その威力ときたら空間そのものを寸断してしまう程に凄まじく、並みの存在であれば触れただけで消滅してしまうことだろう。
しかも、彼には剣術の心得があった。
単純な力押しならまだしも、タクティクスでは彼のほうがはるかに上なのだ。
ならば、女の方を先に始末して彼のペースを狂わせてやろうと思ったが、これもダメだった。
女は女で桁外れの魔力を持っていて何を仕掛けても無効化されてしまうのだ。
圧倒的な力での勝利。それを手にするのは自分だったはずだ。
力を見せつけて、挑んだことへの後悔と死への恐怖で蒼ざめた相手の顔を眺めながらじわじわと追い詰めて殺す。そのはずだった。
それがどうだ。現実派まるで反対だった。後悔しているのは誰だ。死を恐れているのは誰だ。
自分ではないのか?
あれほど持て余していた力が今はひどく頼りなく感じられる。それほどまでに差があるとは思えないし、思いたくもなかった。
「一つ、聞かせてくれないか」
彼が剣を構えたままで口を開いた。
「なぜカオスの出来損ないにその身を捧げてまで世界を滅ぼそうとする?」
「そんなことを聞いてどうするんだよ。作り話の種にでもするか」
皮肉を込めてそう言ってやったが、彼は意にも介さない。
「興味があるんだ」
「おかしな奴だな。戦っている最中に敵と話したがるなんて」
「人と違うことをしてこその自分だからな。おかげで変わり者呼ばわりされて困ってる」
「困っているなら止めればいいじゃないか。他人と同じようにしていれば退屈でも余計なトラブルを起こさずに済む。簡単なことだ。実際にそうしてる連中だって大勢いるよ」
「それじゃあ俺であることの意味がなくなってしまう」
「変わり者なら存在を誇張出来るのかい?」
「さあ、どうだろうな。俺はあまり自分以外のことに執着しないからわからないよ」
彼の言葉にフェンリルは思わず呆れてしまった。
「それでよく人間の輪の中にいられるもんだ」
「居場所は誰かに与えられるものじゃない。自分で作るものだ」
不意に彼の口調が真剣なものに変る。
「俺はこの街を結構気に入っている。この街で一緒に生きていきたい奴もいる。俺はそいつに約束してるんだ。必ず幸せにするってな。だから、今おまえにこの街を、世界を壊されるわけにはいかない」
言葉にも柄を握る手にも力がこもっていた。
彼の思いに呼応するかのように白銀の刀身が眩い光を放っている。
……幸せな奴。僕にもそんな幸福があったのなら、こんなことをせずに済んだのかな。
他人の幸福が妬ましかったのか。それともただそれを求めていただけなのか。
今となってはどうでもいい。
せめて、この身が混沌に呑まれる前にこの男の思いを試してやるか。
「さあ、その思いを貫きたければ力のすべてをぶつけてみるがいい。おまえの道を揺るがす脅威を打ち倒してみせろ」
フェンリルが両手を一杯に広げて叫んだ。
混沌の渦が徐々にその身を取り巻きながら肥大していく。
「――我が剣に宿りしヘリオスの光よ」
彼の口から言葉が漏れた。静かに呟くようにそっと紡ぎ出す。
それはフェンリルの最期を告げる無情な死の宣告にしてはあまりに優しい。
「闇の内に迷いしこのものの心を永久の混沌より解き放て」
「その呪文、転生魔法――魂の解放――」
ホッとしたような女の呟きがフェンリルの耳にまで届いてくる。
そして、発動を告げる彼の言葉。
「――汝を司りしもの、我と我が魂の名において……」
光が溢れた。
優しく、とても穏やかな光――。
彼の声が聞こえる。
――おまえに探す時間をやりたいが、今の俺にはもうそれだけの力はないんだ。だから、せめて来世で希望を掴めるよう祈らせてもらうよ。
汝の心に永久の安らぎを――。
* * * * *
「そんな優しい言葉、僕にはもったいないよ……」
そう言いながらもフェンリルの顔は笑っていた。とても安らかな、最期の微笑み。
春の日溜まりのように穏やかな光の中で少年は昇天した。
* * * * *
大気を引き裂くほどの轟音。
断末魔の叫びを上げながら混沌の化身――カオティック・ロードは滅びていく。
荒れ狂う大気の中で咲耶は確かにその声を聞いたような気がした。
それはひどく安心したような、どこか寂しげな少年の声だった。
* * * * *
カオスティック・ロードの最後。
美姫 「最後のその咆哮は、寂しさを含んでいた」
まあ、色々とあったが、とりあえずは、平穏が。
美姫 「いよいよ、次回は最終章」
一体、どんなエピローグが待っているのだろうか。
美姫 「楽しみ〜」