第8話 嵐の予感

 ――夕刻の空を分厚い黒雲が覆う。

 轟を予感させるごろごろという音に、美里は思わず読んでいたマンガを閉じて耳を塞いだ。

 庭先では優奈が慌しく洗濯物を取り込んでいる。

 晩夏の夕立は降り始めから容赦がない。

 うっかりしているとせっかく乾いた洗濯物があっという間に台無しにされてしまう。

 降り始めた雨に追い立てられるように、優奈は最後の一枚を手にリビングへと駆け込んだ。

「ふぅ、何とか濡れずに済んだみたいね」

「お疲れ様。畳むの手伝うよ」

 ほっと息を漏らしつつ額の汗を拭う優奈に、美里がそう言ってソファから立ち上がる。

「とりあえずブラウスとカッターはハンガーに掛けておいて。後で纏めてアイロン掛けるから」

「了解、っと。お姉ちゃんは先にお風呂沸かしといて。こっちはあたし一人でも大丈夫だから」

「いいけど、こんな時間から入るの?」

「優斗や蓉子が濡れて帰ってくるかもしれないでしょ。ほら、供えあれば何とかって言うし」

 手近な洗濯物を畳みながらそう言う美里に、優奈は感心したように息を漏らす。

「あなたもよく気が利くようになったわね。お姉ちゃん、嬉しいわ」

「えへへ」

 姉に褒められたのがよほど嬉しいのか、嬉しそうに照れ笑いを浮かべる美里。

 優奈はそんな妹にそっと近づくと、優しくその頭を撫でてやる。

「さて、せっかく美里が言ってくれたんだから、忘れないうちにお湯を沸かしておかないとね」

「お姉ちゃん、最近幸せボケしてること多いもんね」

「そういうあなたは一言多いわよ」

「にゃ〜ん。虐めないで〜」

 撫でていた手で軽く妹の頭を押さえると、優奈は風呂を沸かすためにバスルームへと行く。

 それからほどなくして帰宅した優斗は美里が案じた通り、雨に濡れていた。

 ただ、その濡れ様はは予報を聞いて傘を持っていたにしては酷すぎる。

 玄関まで出迎えた優奈はその訳を問い質そうとして、ふとそれに気づいた。

 髪から雨水を滴らせている彼の後ろに所在なげに立っている一人の少女。

 その手には何故か本来なら優斗が持っているはずの傘が握られている。

「……あの、優斗さん。そちらの方は?」

 尋ねる声が、表情が硬い。

 震えていたかもしれない。

 濡れているのは目の前の二人なのに、冷たい雨水に打たれたかのように心が寒い。

 そんな彼女の内心を察したのか、優斗は特に慌てるでもなくそれに答える。

「俺の父親の友人の娘さんだよ。李沙、この人がさっき言った俺のフィアンセだ」

「はじめまして。李沙といいます。優斗さんにはいろいろとお世話になりまして」

 玄関先でそう言って頭を下げる李沙を見て、優奈は慌てて押し留める。

「あの、畏まった挨拶は後にして。まずは着替えないと、お二人とも風邪を引いてしまいます」

「それもそうだな。優奈、とりあえずタオルと彼女に何か着るものを」

「はい。あ、お風呂沸かしてありますから、先に入っちゃってください」

「助かる」

 そう言い残してリビングに取って返す優奈に、優斗は短く礼を言ってバスルームへと向かう。

 まだまだ残暑の厳しいこの季節、風邪など引いては堪らない。

 そう思う一方で、風邪を引いてメイドさんモードの優奈に看病してもらうのも悪くない。

 ……って、何を考えてるんだ俺は。

 邪念を振り払うように、水を吸って重くなった服を脱いで篭に入れる。

 バスルームのドアを開けるとそこに美里がいたということもなく、優斗は一先ずほっとする。

 だが、安心するのはまだ早い。

 この先湯から上がるまで、いつ好色娘が襲撃してくるか分からない以上、油断は禁物だ。

 彼が優奈と付き合うようになってからは、さすがに美里も少し遠慮するようにはなった。

 彼女なりに気を遣っているのだろう。

 お互いの体質の関係で、それでも月に何回かは肌を重ねることになるのだが。

 未だ血に残る獣性のせいか、草薙家の人間は皆一度火がつくと中々押さえることが出来ない。

 美里は特にそれが強く、抑えきれずに暴走することもしばしば。

 優奈は自分を一番に想ってくれるのならと、それを容認している。

 自分も同じ体質であることから、その苦労は十分過ぎる程理解しているのだろう。

 優斗も優奈のことは愛しているし、妹同然の美里にも辛い思いはさせたくない。

 しかし、今が来客中であることを考えると、そうした行為は慎むべきだ。

 いらぬトラブルは起こしたくない。

 その客人こそが騒動の種になりそうな気がしているのは果たして優斗の考えすぎだろうか。

 ……李沙、か。

 保護者として同行している雪那の話では、単に観光がしたかっただけのようにも思える。

 行動派なのは前に北海道で遭ったときに優斗自身が確認済みだ。

 あの夜の礼をしたいのだと彼女は言っていたが、案外それも口実に過ぎないのかもしれない。

 まあ、何にしてもせっかく自分から人間の街に出て来たんだ。

 明日は土曜日で学校も休みだし、あいつにこの街を案内してやるのもいいかもしれない。

    *

 夕飯時には旅費を稼ぐためのアルバイトを探しに行っていた雪那も草薙家へとやってきた。

 その後すぐにいつものように蓉子が夕食をたかりに来たのだが。

「…………」

 勢いよく玄関のドアを開けた蓉子はそこに立っていた人物を見て思わず硬直した。

 ――金髪に、和服の、まるで雪のような白い美貌を持つ女性。

 駅前で見たビジョンと目の前のそれが頭の中で重なって、蓉子はとっさに臨戦態勢を取った。

 ……握った右の拳に妖気を集束させ、いつでも術を放つことが出来るようにする。

 そんな蓉子の様子を見て、雪那は静かに口を開いた。

「およしなさい。こんなところで争っても家主に迷惑を掛けるだけですよ」

 優しく諭すようなその声音に、蓉子の中で微かに緊張が緩んだ。

 彼女に畏怖の念を抱かせたあの清浄な気も、今の雪那の周囲には感じられない。

 それでようやく肩の力を抜けたのか、蓉子はバツが悪そうに頭を下げた。

 それに対して、雪那はお気になさらずといったふうに軽く頭を振ってみせる。

「おかえり、蓉子。それと、あなたが雪那さん?」

 そこへ出迎えにきた美里が二人の姿を見てそう声を掛けた。

「はい。わたくしが雪那です」

「話は聞いてます。どうぞ、あがってください」

 そう言って二人分のスリッパを揃える美里。

 人見知りする妹のほうが応対に出ているということは、姉はキッチンで料理中か。

 油の匂いがするし、揚げ物でもしているのだろう。

 そんなことを考えつつ、雪那の後について蓉子も靴を脱いで上がる。

 リビングでは湯から上がった優斗が雑誌を片手に寛いでいた。

「おじゃまいたします。遅くなってしまって申し訳ありません」

「別に構いませんよ。どうぞ、適当に掛けてください」

「失礼します」

 雪那はそう彼に一言断ると、勧められるままにソファへと腰を下ろした。

 李沙は優奈が用意した彼女の服を着て、物珍しそうにテレビを眺めている。

「この娘は」

「さっきからずっとその様子です。気持ちは分からないでもないですがね」

 そう言って苦笑する優斗に、雪那は曖昧な笑みを浮かべて小さく頭を下げる。

「ねえ、優斗。この人たちって誰なの?」

 雑誌に視線を戻した優斗の側に蓉子が寄ってきてそう小声で尋ねる。

「俺の知り合いだ。もうすぐ夕飯だから、詳しくはその席で紹介するよ」

 そう答えながらページをめくると、彼はそこに枝折を挟んで閉じる。

 何気なく表紙に目をやった蓉子はそのタイトルに思わず唖然とした。

 ――海鳴怪奇譚。

 同人誌だった。

「へ、へえ、あんたもこんなの読むんだ」

「同業者に勧められてな。意外と面白いんだ、これが」

 そう言ってソファから立ち上がると、優斗は手を洗いに洗面台へと向かう。

 キッチンでは美里がコップを並べ終え、優奈が人数分のご飯を茶碗に装っている。

 それを見た蓉子は自分も手を洗うために優斗の後に続いた。

「はーい、ご飯出来ましたよ。皆、手を洗ってきてくださいね」

 優奈の声に雪那が李沙を促して立ち上がる。

「李沙、人間は食事の前に手を洗うのです。わたくしたちもここではそれに倣いましょう」

「うん。分かった」

 李沙は少し不思議そうな顔をしていたが、雪那にそう説明されて納得した。

 ほどなくして全員がダイニングに揃い、夕食となる。

「お、今日はトンカツ定食か」

 テーブルを見渡して優斗がそう声を上げる。

「お肉が安かったものだから、思い切って奮発しちゃいました。さあ、冷めないうちにどうぞ」

「いただきます」

 優奈の言葉に全員の声が唱和する。

「ねえ、優奈。これなに?」

 蓉子が小鉢を指差してそう尋ねる。

「山芋とキュウリの梅肉和えですよ。夏バテ防止にいいんです」

「へぇ、どれどれ……」

 優奈の説明を聞きつつ、蓉子はさっそくそれへと箸を伸ばす。

「うん。中々いけるよ。優斗も食べてみなよ」

「もう食べてる。結構、好きなんだこの味」

「優斗は優奈お姉ちゃんのお料理には何だってそう言ってるよ」

 箸を動かしながらそう答える優斗に、美里が少し呆れたように苦笑する。

「しょうがないだろう。本当に美味いんだから」

「うふふ、褒めたって何も出ませんよ」

「俺にはその笑顔だけで十分だよ」

「あ、ありがとうございます……」

 真顔で歯の浮くような台詞を言われてしまい、優奈は思わず真っ赤になった。

「あー、はいはい。お客さんも来てることだし、そのへんでね」

 美里が軽く手を振ってそこだけ色の変わり始めた空気を退散させる。

「李沙、ご飯はこの箸を使って食べるのですよ」

「うん。えっと、じゃあこれから」

 雪那の実演を交えた指導に従って、トンカツの一切れに箸を伸ばそうとする李沙。

「あ、それはこのソースをかけて食べたほうが美味しいですよ」

「ありがと。えっと、優奈さん」

「どういたしまして。キャベツはドレッシングのほうがいいかしら?」

「任せるよ」

「わたくしもそれをいただけますか?」

「あ、はい。どうぞ」

 そう言って優奈はソースの入った瓶を雪那へと渡す。

「それにしても、本当に優奈は料理が上手いよな」

 味噌汁を啜りながら優斗が言う。

「本当だよね。このトンカツもいい感じにキツネ色だし」

 何気ない調子で蓉子がそう言った途端、草薙の3人の視線が彼女へと集まる。

「あ、あたしは違うわよ。も、もう、優斗は知ってるでしょ」

 視線の意味に気づいて慌てて首を横に振る蓉子。

「何の話?」

 事情を知らない李沙が興味津々といった様子で身を乗り出してくる。

「こいつ、蓉子の地毛がキツネ色だって話だ」

「だから、違うってば。っていうか、あんたはお行儀悪いわよ」

「そうなの?」

 否定ついでに窘められた李沙はその両方に対して疑問を発する。

「そうですわね。李沙、お食事の最中は無闇に身を乗り出すものではありませんよ」

「分かった。それで、蓉子の毛は本当は何色なの?」

 本当に分かっているのか怪しい李沙はそう言うと、改めて蓉子へと視線を向けた。

「あたしは見ての通りの黒髪よ。偶に赤や銀に染まったりはするけど、基本はこの色だから」

「そうなんだ」

 頷いた李沙は何故か残念そうだ。

「と、その話はともかく、そろそろ自己紹介なり何なりしないと話し辛くない?」

「それもそうね。それじゃ、まずはわたしから」

 多分に蓉子へのフォローが含まれている美里のその提案に、優奈も頷いて口を開く。

 そうして順に自己紹介をしていき、最後に李沙が席を立った。

「えっと、草薙と雪那以外の人ははじめまして。白山猫の族長の娘で李沙といいます」

 そう言ってぺこりと頭を下げる李沙。

「山猫の娘って、それじゃあんたも妖怪?」

「あはは、あたしは人間だよ。山猫ってのは育ての親で、本当の両親じゃないから」

 何でもないことのように李沙はさらっと自分の生い立ちを話す。

「でも、そういう発想が出てくるってことは、蓉子もこっちサイドの人なんだね」

「まあ、ね」

 李沙の何気ないその一言に、蓉子の表情が一瞬翳る。

 それは本当に微かな変化で、隣にいた美里にすら気づかれてはいなかったけれど。

 優斗の目はしっかりとそれを捉えていた。

 ……気まずい、沈黙。

 ――通り過ぎるはずだった雨はまだ止まない……。

 * * * *



  あとがき

龍一「ほのぼのとした日常のはずが、李沙の不用意な発言で台無しに」

李沙「なによ、あたしが悪いって言うの?」

龍一「当然だ」

李沙「わぁ、言い切ったよこの人は」

龍一「事実を言って何が悪い。大体おまえはだな」

李沙「ああ、もう。うるさい人は嫌いだよ!」

――グサグサグサ。

龍一「ま゛ま゛ま゛ま゛……&%&$#!?

李沙「ふっ、やっぱり静かなほうが落ち着くわ。それではまた次回で〜」

 




蓉子の顔が翳ったのは何故か。
美姫 「それは…」
な、何ぃぃ、知っているのか!?
美姫 「さーて、次回はどんなお話が待っているのかしら」
教えてくれ〜。
美姫 「さて、馬鹿の戯言は放っておいて、次回が非常に楽しみね」
うぅぅ〜。最近、美姫が冷たいんだよ。よよよよよ…。
美姫 「(無視)それじゃあ、また次回も楽しみに待ってますね〜」
う、うわぁーーん!
美姫 「ではでは〜」



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