第11話 蒼牙とアカツキ

  * * * * *

 蓉子は落ちていた。

 底無しの闇の中を、浅い眠りに似た浮遊感に包まれながら、どこまでも、どこまでも……。

「……本当にいいんだな?」

 聴き慣れた声にそう聞かれて、頷く自分がどこか遠い。

 まるで自分自身を外から見ているような、そんな感覚……。

 それが彼女の願望が見せている幻、俗に言う夢であると気づいて愕然とした。

 ……あたしは、こんなのを望んでるっていうの?

 そこにあるのは自身の情欲に溺れた一匹の女狐の姿だった。

 叶わぬ恋と知りながらも、それを抱いた相手に自分のすべてを曝している。

 呆れるくらい身勝手で、我侭な自分の本性……。

 ――違う。あたしはこんな嫌な女じゃない!

 必死になってそう叫んでもそれが声になることはなかった。

 ……体を侵蝕する未知の感覚。

 甘く痺れるような、疼きにも似たそれが彼女を犯し、狂わせていく。

 否定の代わりに喉を通して出たのは自分のものとは思えない艶かしい、声……。

 ……あっ、ああっ……だ、ダメ、あたし、おかしくなっちゃう……。

 必死に抗おうとするも、感覚以外の命令系統は完全に彼女の意思を離れていた。

 いっそ理性を放棄してその感覚に身を委ねてしまおうかとも思った。

 どの道、抗い続けるのは無理だった。

 どうせ夢なのだから、少しくらいはそれもいいだろうと思う。

 一度受け入れてしまえば後はただ、堕ちていくだけだった。

 対照的に彼女の体を支配する感覚が高まり、そして……。

  * * * * *

 昇り始めた太陽の光を鈍く返して、模造の刃が宙を薙いだ。

 まずは中段、正面から軽く踏み込みながらの一刀。

 続いて刺突、4方向からの袈裟切り、下段からの切り上げ……。

 基本9斬撃を用いての素振りはあらゆる剣術における鍛錬の基本である。

 それは対妖魔剣術である破邪真空流とて例外ではない。

 いろいろあって眠れなかった優斗は早朝の草薙家の庭で少し早めに鍛錬を始めていた。

 日々磨き、積み重ねる。これ、即ち上達の基本である。

 優斗はその刃を持って愛する家族の平穏を守ると誓った男だ。

 故に剣に取り組む姿勢もまた真剣そのものだった。

 だが、今朝の彼には今一つ覇気が足りない。

 おそらくは昨夜の蓉子との一件が尾を引いているのだろう。

 幾ら邪気を払う為とはいえ、幼馴染にあんなことを……。

 ……いかんいかん。

 邪念を排除するためにやっている精神統一の最中にこれでは意味がないではないか。

 軽く頭を振って、優斗は練習用の模造刀を握り直す。

 と、そこへ声が掛けられた。

「おはようございます」

 雪那だった。

 昨日と同じ白い和服姿に竹刀袋を携えて縁側に立っている。

 その姿を確認すると、優斗は刀を下に下げて挨拶を返した。

「おはようございます。どうかされたんですか、こんな朝早くに」

 とりあえず自分のことは棚に上げてそう尋ねてみる。

「少し目が覚めてしまいまして。せっかくですから、散歩でもと思ったのですが」

 そう言いつつ、彼女は優斗の手の中のものへと目を向ける。

「優斗は朝が早いのですね。それは真剣ですか?」

「いえ、これは模造刀ですよ。鍛錬用に何本か持っているんです」

 少し目を細めて刀を見る雪那に、優斗がそう説明する。

「失礼かとは思ったのですが、先程少し見させていただきました」

「剣術に興味が?」

「興味と申しますか、わたくしも少々剣をやりますので」

 そう言って、雪那はチラリと腰の竹刀袋に目をやる。

「なるほど。それで、どうですか。雪那さんの目から見て俺の剣は」

「悪くはありません。ですが、今は少々曇っているようにお見受けします」

「曇っている、ですか」

 言われて優斗はぎくりとした。無論、核心を突かれたからだ。

「迷いか、もしくは何か疚しいことがあるのではありませんか?」

 何やら含んだような笑みを浮かべてそう尋ねる雪那に、優斗は思わず冷や汗を浮かべた。

「修練が足りませんね。その程度で気を乱しているようでは、修羅場は幾つも潜れませんわよ」

「……精進します」

「よろしい」

 優斗が項垂れたのを見て、雪那はぽんと一つ手を打った。

「その直向な姿勢に免じてこのわたくし、アカツキの雪那が直々に稽古をつけてさしあげます」

「……それは、挑戦と受け取って構わないのですか?」

 彼女の提案に優斗が口元を歪める。

「お好きなように。ただし、どのような場合でもわたくしは手加減はいたしませんので」

「上等」

 短くそう返して、優斗は模造刀を構え直した。

 雪那も竹刀袋の口を緩め、二人の間に緊張が走る。

「そんな偽物で良いのですか?」

「お構いなく。これはこれで使い勝手が良いものですから」

 僅かに言葉を交しつつ、互いの隙を探り合う優斗と雪那。

 どちらもその表情は全く真剣で油断がない。

 そのまましばし睨み合いが続き、やがて両者の間の緊張が最高潮に達した。

 解放される闘気……。

 同時に優斗が地を蹴った。

 踏み込むと見せかけて大きく後ろへ跳び退くと、右手に握った太刀を横へと振る。

 その手の動きを見ていた雪那は愛刀・アカツキの柄に手を掛け、一歩前に踏み込んだ。

  * * * * *

 ――斬!

 金属の砕ける耳障りな音に、蓉子の狐の耳がぴくりと反応した。

 続いてゆっくりと身を起こす。

 いつもの習慣で枕元に目覚まし時計を探るが、それらしい物体は見当たらない。

 そもそもそこは彼女の寝室ですらなかった。

 そのことに思い至った蓉子は、とりあえず起きて状況を確認することにした。

 ……頭には二日酔いと思しき鈍い痛み。

 髪と着衣が少し乱れているのはこんなところで寝てしまったからだろうか。

 ……がきん、ざん、ぎぃぃぃんっ!

 断続的に聞こえてくる金属同士がぶつかり合う音に、今や蓉子の意識は完全に覚醒していた。

「あ、あいつは……」

 痛む頭を押さえつつ、蓉子はゆらりとソファから立ち上がる。

 そのまま文句の一つも言いに行こうとして、彼女はその足をバスルームへと向けた。

 尤もそこに彼がいるわけではない。

 単に汗で服が肌に張り付いて気持ち悪かったので、先にシャワーを浴びたかったのである。

 服を脱いでバスルームの扉を開けると、ちょうど優奈がお湯を張っているところだった。

 ……そういえば、毎朝鍛錬をしている優斗のために彼女が支度していたんだっけ。

 ふとそんなことを思い出しつつ、蓉子は優奈と朝の挨拶を交わす。

「おはようございます。これからお風呂ですか?」

「昨夜のお酒が効いたみたいで、起きたら汗だくだったのよ。悪いんだけど、洗濯頼めるかな」

「いいですよ。着替えは……持ってきてないですよね」

「あー、うん。どうしよ」

 成り行きで泊まってしまった彼女には当然それに必要な準備などあるはずもない。

 優奈に言われるまで気づかないあたり、蓉子もまだぼーっとしているのだろう。

 困ったように優奈を見る蓉子に、彼女は大丈夫だとばかりににっこりと笑ってみせた。

「ゆっくりお湯に浸かっててください。その間にちゃんと着られるようにしておきますから」

「ごめん。この朝の忙しい時に手間掛けさせちゃって」

「気にしないでください。昨夜の洗濯物もありますし、そんなに手間ではないですから」

「ありがと。それじゃ、冷めないうちにお風呂いただくね」

 そう言って、蓉子は扉の向こうに消える。

「ごゆっくり」

 そう声を掛けてから、優奈は改めて脱衣所内を見渡した。

 篭に入れるのも億劫だったのか、床には蓉子が脱ぎ散らかした衣類が散乱している。

 しっかりものの彼女がこんなになるなんて、よほど昨夜の『お払い』は激しかったのだろう。

 思わず、手にした下着を見つめてしまう。

 昨夜の蓉子は邪気に憑かれていて、早急に払わなければ命が危なかった。

 問題なのはその方法である。

 優斗はその言動から彼女の中に燻っているものを看破すると、逆に押し倒してしまったのだ。

  * * * * *

「隙あり!」

 僅かに反れた切っ先をかわして、アカツキの白い刃が優斗へと迫る。

 それを優斗は左の小太刀で受け流し、再び右の小太刀を雪那の脇へと突き入れる。

 最初の模造刀が砕かれた瞬間、彼はその手に蒼牙を呼び寄せ、二刀の構えを取っていた。

 四天宝刀とその正当後継者を相手に、普通の刀で太刀打ちするのはまず不可能だ。

 幸い、彼の手元にはそれに対抗し得る刃があった。

 それを呼び寄せる時間を稼ぐと同時に、強力な抜刀術を出させないための牽制として優斗は模造刀を投げたのだ。

  * * * * *

 今思えば他にもっと方法があったのではないだろうか。

 例えば、巫女である佐藤かおりを呼んで彼女の力で浄化してもらうとか。

 蓉子に対して特別な感情を抱いている彼女なら、一も二もなく飛んでくるだろう。

 ……別に嫉妬しているわけじゃないんです。

 美里のこともありますし、蓉子さんはわたしにとっても大切な家族です。ただ……。

 しっかりしている部分があるとはいえ、蓉子も年頃の少女だ。

 あのような形で処女を失ってしまったと知れば、想到ショックを受けるだろう。

 そのとき、彼は一体どうするつもりなのか……。

「責任取るなんて言わないでくださいよ。そんなこと言われたらわたし、泣いちゃいます」

 そんなことはないと信じていても、つい祈るようにそう漏らしてしまう。

 ……だって、女の子だもん。

 そう自分を納得させると、優奈は不安を打ち消すように家事へと戻っていった。

  * * * * *

 ――そして。

 朝食後のリビングで優斗は蓉子に昨晩の出来事を話していた。

 他のものはそれぞれ出掛けるための支度をしに部屋へと戻っている。

 優奈だけは目撃者としてその場に同席していたが。

「そっか、夢じゃなかったんだ……」

 話を聞いた蓉子は自嘲めいた笑みを浮かべてそう漏らした。

「ごめんね優奈。信じてもらえないかもしれないけど、そんなことするつもりなかったんだ」

「謝らないで。あの場合はそうするしかなかったんですから。それよりも……」

 謝罪の言葉を遮って優奈は逆に気遣わしげな目を彼女へと向ける。

 その意を察した蓉子は慌ててぱたぱたと手を振った。

「あー、それは大丈夫だから」

「そんなわけありません。無理をしないでください」

「本当に大丈夫だって。これが初めてってわけじゃないし」

 うっかり漏らしてしまったその言葉に、優奈の目が驚愕に見開かれる。

「本当なんですか?」

 信じられないと言う目で優斗を見る優奈に、彼は真顔でああ、と頷いた。

「これで5回目だな。こいつがミタマクライに憑かれたのは」

「え?」

 優斗の口から出た耳慣れない言葉に、優奈は一瞬きょとんとする。

「今までのは大抵、発情期を狙ってきていたからまだ対処のしようがあったんだがな」

「は、発情期ですか?」

「妖怪と言っても狐は狐だからな。そういうのもあるのさ」

「は、はぁ」

「尤も蓉子の場合は少々過剰なようだけどな。この前なんか、いきなり背後から……」

 そこまで言って優斗は唐突に口を噤んだ。

 蓉子は顔を真っ赤にして俯いてしまっている。

 さすがにまずかったかと思い、優斗が彼女の顔を下から覗き込もうとしたそのとき。

「……なんてね。どう、恥らうあたしは。中々かわいかったでしょ?」

 不意に顔を上げたかと思うと、蓉子はそう言ってあはは、と笑い出す。

「お、おまえって奴は……」

「まあまあ。そう怒らない。いつものことじゃない」

「少しは反省しろ。この悪戯狐め」

 そう言って軽く拳を握ってみせる優斗に、蓉子は慌てて手で頭を庇うふりをした。

 そんな二人のやり取りを見て、優奈がくすくすと笑い出す。

「優奈?」

 急に笑い出した優奈に、二人は思わず動きを泊めて怪訝そうな顔をする。

「ごめんなさい。ただ、本当にいつも通りだなって、思って」

 笑いを納めつつ、そう言った優奈の言葉に優斗が苦笑し、それに蓉子が不服そうな顔をする。

「あたし、そんなにいつも悪戯ばかりしてないよ」

「本当にそう言えるのか?」

「うっ、た、たぶん……」

 追求されて途端に視線を泳がせる蓉子。心当たりはありすぎるほどあるようだ。

「それくらいにしてあげてください。蓉子さんも悪気があったわけじゃないんですから」

「はぁ、優奈がそう言うんならそうするが、あまり調子に乗るんじゃないぞ」

「はいはい。分かってるって」

「本当に分かってるんだろうか……」

 釘を刺されても変わらず元気な蓉子を見て、優斗はやれやれと溜息を漏らした。

 そこへ支度を終えた美里と李沙、雪那の3人がやってくる。

「お待たせいたしました」

「雪那さんはこれからアルバイトですか?」

「はい」

「駅前のお好み焼き屋さんでしたよね。がんばってくださいね」

「蓉子、『即売会』って10時からなんでしょ。そろそろ出ないとまずいんじゃない?」

「そうだね。美里、軍資金は持ったかな」

「ばっちりだよ」

「優斗、今日は何をご馳走してくれるの?」

「李沙、他に何か楽しみにしていることはないのか」

「いいじゃない。美味しいものたくさん食べたいんだもの。奢ってくれるよね」

 そんな感じでわいわいと騒ぎながら、6人は街へと出掛けていく。

 この日、9月最後の土曜日が悪夢の始まりとなるとも知らずに……。




       * * * * * *

         あとがき

       龍一「ちょこっと戦闘をやってみました」

李沙「って他にやることあるでしょう?」

龍一「優佳さんのお話はまた外伝でってことで」

李沙「修羅場は?」

龍一「やらない」

李沙「どうしてよ!?

――どががががが!

龍一「げげげげげ……ばたん、きゅぅ〜」

李沙「やっぱりマシンガンって派手でいいわよね」

龍一「ううっ、体に穴が……」

李沙「細かいことは気にしない」

龍一「どこが細かいんだ?」

李沙「ほんの二、三百発じゃない」

龍一「ああ、何だかすーすーするよ。さすがにこんだけ風穴が開いているとな」

李沙「はいはい。それじゃあ、次回も元気にいってみよ〜」

龍一「(泣)」

 




雪那、強いな〜。
美姫 「ええ、伊達に四天宝刀ではないわね」
うんうん。蓉子の邪気も払えたみたいだし、一先ずは安心かな?
美姫 「そうね。さて、次回はどんな出来事が待っているのかしら♪」
非常に楽しみだな。
美姫 「ええ、それはもう、とってもね♪」
それじゃあ、また次回で。



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