*
恋をしていた。
叶わぬ想いと知りながらもたった一人の異性に心焦がれて。
眠れない夜を何度過ごしただろうか。
きっかけはある雨の日のこと。
傘を忘れて途方に暮れていたわたしに、その人はそっと手を差し出してくれました。
同じ方向だからと駅までの道を並んで歩いた。
一つの傘を二人でさしているところを誰かに見られるのは恥ずかしかったけれど。
それでも駅までの少しの間、わたしは幸せでした。
他愛のないお喋りにもほとんど上の空で。心配させてしまったのは失敗でした。
それじゃあ、と短い言葉を交わして駅近くのマンションの下でわたしたちは別れた。
ぼーっとしていたわたしの手には気づくと彼の傘が握られていた。
慌てて返そうとしたけれど、そのときにはもう彼は上の階へと行ってしまった後だった。
仕方なく、わたしはそのまま駅へと向かった。
明日、学校で会ったらちゃんとお礼を言って返そう。
ぼんやりとした頭でそんなことを思いながら、わたしは雨の中を家路に着くのでした。
*
愛憎のファミリア2 番外編
IF〜ファミリアのメイドな1日 虹色恋歌編〜
*
例年より四日遅れての梅雨入りから三日が過ぎていた。
昨日の夕方から降り始めた雨は衰えることなく今も降り続いている。
そのせいで渇かない洗濯物を文明の力に任せると、ファミリアはリビングで一息吐いた。
「ふぅ……、憂鬱ですね……」
窓の外へと目を向け、物憂げに溜息を漏らす彼女。
雨の中で死んだものの魂から分かれたせいか、どうにも憂鬱になるのだ。
同じ理由で彼女の姉も今頃は似たような気分でいるに違いない。
尤も彼女の場合は、鬱陶しさから募る苛立ちを抑えるのに苦労しているのだろうが。
そんなことを考えていると、不意にファミリアの胸元で携帯電話が鳴り出した。
噂をすれば、というわけではないのだが、思わず苦笑が漏れてしまう。
ディスプレイに表示された番号は彼女の姉、ディアーナのものだった。
「姉さん、どうかしたんですか?」
「いや、ちょっとおまえの声を聞きたくなってな。仕事中だったか」
「いえ、ちょうど一段落したところですよ」
「そうか」
電話越しにあからさまな安堵の気配が伝わって、ファミリアは少々眉を顰めた。
「何か職場で嫌なことでもありました?」
「いや、まあ、そんなところだ」
妹に図星をさされ、曖昧に言葉を濁すディアーナ。
「それで、本当はどうしたんです?」
「何がだ」
「とぼけるんなら切りますよ。電話代ももったいないですし」
「ああ、悪かった。正直に言うから切らないでくれ」
慌てて謝る姉に、ファミリアはくすっ、と笑みをこぼす。
「今朝の朝刊は見たか?」
「はい?」
「夕日でも徳詠でも良いからまだならすぐに見てくれ」
「姉さん、それどっちも違う地方の新聞ですよ」
切羽詰った様子の姉に苦笑しつつ、ファミリアはテーブルの上の新聞へと手を伸ばす。
「サッカーW杯、日本決勝リーグ進出叶わず」
「違う。3面だ」
「青い傘が狙われる。謎の連続通り魔事件」
「そう、それだ!」
急に耳元で大きな声を出され、ファミリアは思わず携帯電話を遠ざけた。
「姉さんはわたしの鼓膜を再起不能にするつもりですか」
「いや、悪い悪い。それよりもその事件、何か引っ掛からないか?」
よほど気になっているのか、謝りつつもそう聞いてくるディアーナ。
「気になるって……、通り魔事件でしょ?」
「そうだ。何か感じないか」
「そういえば、去年に姉さんも起こしてましたね」
「バカ、あれは邪気に操られてたからだ。わたしの本意じゃない」
何気ない調子でそう言ったファミリアに、ディアーナはやや声を荒げて否定した。
「済まない。だが、あれは本当にわたしの本意じゃなかったんだ」
「分かってます。わたしのほうこそ、思慮が足りなくて」
「まあ、それは今は良いさ。それより、その通り魔事件なんだが、少し妙なんだ」
「妙?」
話題を変えるようにそう言った姉に、ファミリアも頷いて聞き返す。
一応手元の記事に目を通してみるが、別段おかしなところは見られないように思う。
その文面から分かるのは事件のあった場所と凶器が刃物ではないということ。
後者は被害者の頭部に鈍器で殴られたような痕があるという記述からだ。
後は犯行のあった日付とその日の天候……。
「しかし、物騒な世の中になったものですね」
「まったくだ。おまえも出歩くときは気をつけるんだぞ」
姉のいう妙な部分はファミリアには分からないが、とりあえず思ったことを口にする。
結局は注意するように言いたかっただけなのだろう。
ディアーナもそれに頷いてそう言うと、時間だからと言って電話を切った。
どうやら向こうも仕事の合間に掛けてきていたらしい。
心配してくれるのは嬉しいのだが、それもどうかと思うファミリアだった。
携帯電話をしまおうとして、ふとディスプレイに表示された時刻に目が留まる。
大分話し込んでいたようで、気づくともう昼前だった。
執筆のために朝から書斎に篭もっている彼女の主人もそろそろお腹を空かせて降りてくる頃だ。
さて、今日は何にしましょうか。
*
「雨、止まないな」
食後のコーヒーを飲みながら漏らした浩の呟きに、美姫が読んでいた雑誌から顔を上げた。
「そりゃ、梅雨だからね。そんなことよりあんた、早く原稿仕上げなさいよね」
「ああ、分かってるよ」
カップを傾けつつ生返事を返す浩。その目は降りしきる雨に煙る窓の向こうへと向いていた。
「何、物思いに耽ってるのよ。浩のくせに生意気よ」
「俺だってそういうことくらいあるさ」
珍しく淡白な浩のその反応に、美姫はつまらなそうに視線を外す。
締め切りを来週末に控えた初めての短編集。
その最後の一話が思うように進まないことと何か関係があるのだろうか。
「どうでも良いけど、それ飲んだら仕事しなさいよね」
「ああ」
「本当に分かってるんでしょうね。今度締め切り破ったらわたしの首も危ないんだから」
「ああ」
「あんた、人の話聞いてる?」
「ああ」
「……………」
気のない返事を返すばかりの浩に、美姫は無言で雑誌を閉じると席を立った。
その手には彼女愛用の剣の一つである紅蓮が握られている。
洗い物を終えて戻ってきたファミリアはそれを見て慌てて止めに入ろうとするが、遅かった。
「この、しゃきっとしなさい!」
上段に構えた紅蓮の刃を納めた鞘が抜け落ち、浩の頭を直撃する。
「うぎゃっ!?」
そこに間髪置かず、紅蓮の刃が振り下ろされた。
「峰打ちよ。さすがにこれ以上執筆が遅れると洒落にならないから手加減してあげたわ」
崩れ落ちる浩を尻目にそう言うと、美姫は床に落ちた鞘を拾って剣を納める。
「あの、完全に気を失ってるみたいなんですけど……」
「嘘!?」
言い難そうにそう言うファミリアに、美姫は慌てて浩の首を掴んで引き起こした。
「ちょっと、ふざけてないでさっさと起きなさいよ。いつもの再生能力はどうしたのよ」
首を掴んだまま激しく揺さぶる美姫。さすがに自分の首は大事なようだ。
「止めてください。そんなことをしたら本当にご主人様が死んでしまいます」
「何言ってるのよ。こいつがこんなことくらいでくたばるわけないじゃない」
「だ、だからって、そんな酷いことしちゃダメです!」
美姫の手から浩を奪い取ると、ファミリアはざっと彼の状態を確かめた。
「ほら、呼吸が止まってるじゃないですか」
「その割には血色は良いみたいだけど」
異常な点を指摘する美姫を無視して、人工呼吸を始めるファミリア。
「って、そんなことしなくてももっと簡単に蘇生させる方法があるでしょ。こいつの場合は」
「そ、そうでした」
言われて微かに頬を染めると、ファミリアは浩の耳元に唇を寄せて囁いた。
「……ご主人様、起きてください……」
がばっ!
「オウ、マイメイド!」
囁かれた浩は突然起き上がったかと思うと、奇声を上げてファミリアに飛び掛った。
「隙だらけよ!」
それを見て、美姫は反射的に持ったままだった紅蓮で彼の後頭部を殴打する。
「美姫さん!」
「あ、あはは、ごめん。つい」
再び崩れ落ちる浩を見て、美姫は引き攣った笑みを浮かべる。
そんな彼女へと批難の目を向けつつ、足元の主人をどうしたものかと考えるファミリア。
美姫の手前、同じ方法で起こすのは今は止めておいたほうが良いだろう。
仮に条件反射を防げたとしても、今度は飛び掛ってくる浩を何とかしなければならなくなる。
さすがに主人に手を上げるのはメイドとして御法度なので、それは美姫の役になるわけだが。
これ以上恋人でもある自分の主人が酷い目に合うところを見るのは嫌だった。
結局、自然に目覚めるまで寝かせておくことになり、二人はそれぞれの仕事へと戻る。
*
「ったく、美姫の奴は俺のことを何だと思ってるんだ」
ぶつぶつと文句を言いながら、コンビニの棚から頼まれた品物を取って篭へと入れていく浩。
夕方になって目を覚ました彼に、美姫はいきなり買い物に行ってくるよう命じてきた。
命令というところにかなり納得がいかないものを感じたが、剣が怖いので逆らえない。
ファミリアも申し訳ないから自分が行くと言ったのだが、それも美姫に却下された。
「だって、あんたがキッチンに入ったら大抵ろくなことにならないもの」
「うっ、じゃあおまえが行けば良いじゃないか」
「嫌よ。まだ雨降ってるし、面倒くさい」
「お、おまえなぁ」
「良いから行ってきなさい。それとも今から書斎行って続き書く?」
「買い出しに行かせていただきます」
というような具合である。
「理不尽だ」
それはもう思わず声に出さずにはいられない程に。
とはいえ、それに立ち向かうだけの勇気も力も浩は持ち合わせていなかった。
そのあたりが美姫にへたれと言われる所以なのだろうが、ないものはないのだから仕方ない。
仕方ない。否、そうやって諦めているからこそあいつはどんどん付け上がるんだ。
「よしっ、帰ったら一発がつんと言ってやる。ああ、言ってやるとも」
この際だから立場ってものをはっきりさせねば。
本人の前ではとても言えないことを呟きながら、渡されたメモに従って買い物を済ませる。
そうしてコンビにの外に出た浩を勢いを増した雨が出迎えた。
「あーあ、ますます降ってきちゃった」
不意に横から聞こえたそんな声に浩がそちらを向くと、小学生くらいの女の子が困り果てた様子で空を見上げていた。
「君、傘を忘れたのかい?」
「あ、うん。迎えに来てもらおうにもこんな日に限ってケータイ忘れちゃうし……」
「コンビニの傘……は買えるんならとっくにそうしてるか」
「走って帰るしかないかな。うう、風邪引いちゃうよ」
泣きそうな顔でそう言う女の子を見かねた浩は少し考えた後で自分の傘を差し出した。
「ほら、これ使って良いから早く家帰りな」
「えっ、でも……」
「傘なら買えば良いから」
「うん。ありがとう。お兄ちゃん。ばいばい」
傘を受け取った女の子は笑顔でそう言うと手を振って駆けていった。
「優しいんですね」
「おわっ!?」
振り返ると同時に声を掛けられ、浩は思わず妙な声を上げてしまった。
「ごめんなさい」
小さく笑みを見せてそう謝るのは浩の知らない女性だった。
「あ、ああ、っていうか、今の見られてたのか」
「ええ」
独り言のつもりで漏らした呟きにも笑顔で頷かれ、浩は参ったなというふうに頭を掻いた。
「それで、困っている女の子に傘をあげてしまった優しいお兄さんはこの後どうするんです?」
「とりあえず、コンビニで傘を買って帰るさ。もったいないが濡れるのは嫌だからな」
そう言って店の中へと戻った浩だったが、彼は傘を買うことが出来なかった。
小銭はさっきの買い物で使ってしまったので、紙幣を崩すことになるのが少し嫌だった。
それでも濡れて帰るよりはマシかと思い、財布を開いた彼はそこで動きを止めてしまった。
視線の先にある物、紙幣だと思っていたそれは一銭の価値もないただの領収書だったのだ。
思わず叫びたくなる衝動をぐっと抑え込み、浩はとぼとぼと店の外へと向かった。
レジに行く前に残金を確認したおかげで恥をかかずに済んだのがせめてもの救いだった。
「傘、買えました?」
店の外に出た浩へと先程の女性が声を掛けてきた。
「いや。そういう君はこんなところで何をしてるんだい?」
「あなたを待っていたんですよ」
「俺を?」
「はい。女の子に傘を貸したせいで濡れて帰ることになってしまう男の人を待ってました」
不思議そうに聞き返した浩に、女性は笑顔のままそんなことを言う。
いや、別に嫌味で言っているようではないと分かるので不快にはならないが。
「どうでしょう。もしも同じ道を行くのなら、わたしの傘に入っていきませんか?」
「はぁ、何故に」
「懐かしいものを見せてもらったお礼です。それとも見知らぬ女性との相合傘は嫌ですか?」
小首を傾げてそう聞いてくる女性に、浩はますます戸惑いを深めるばかりだった。
結局、浩は断りきれず、その女性の申し出を受けることになった。
偶然にも向かう先が同じ方向だったということもある。
しかし、彼女はそれを承知の上で誘ってきたのではないだろうか。
そんな疑問を浩に抱かせるほど、この女性の立ち振舞いは不可思議だった。
同居人の紅美姫や自分の使い魔になった恋人兼メイドともまた違う。
何処か浮世離れした雰囲気を持つ女性の横顔を見ながら、浩は何気ない調子で話しかけた。
「この傘」
「え?」
「いや、君みたいな年頃の娘さんのものにしては大人しい趣味だなって」
「似合いませんか?」
「いや、悪くないと思うよ。俺も青は好きだし」
自分たちを冷たい雫から護ってくれている傘を見上げて、浩はそう言った。
「ありがとうございます。でも、これわたしのじゃないんですよ」
「え?」
「いつだったか今日みたいな雨の日にわたし、さっきのあの子みたいに傘を忘れちゃって。そのとき、同じクラスだった男の子が貸してくれたんです」
交差点の赤に足を止めながら、そう言った彼女は何処か遠い目をしていた。
「クラスって、君俺とそんなに年変わらないよな」
「女性に年齢を尋ねるのは御法度ですよ」
「いや、悪かった」
変わらぬ笑顔のままそう言う女性が怖かったので、浩はすぐさま素直に謝った。
「まあ、お察しの通り、この傘を借りたのはもう随分前のことになるんですけどね」
赤かった信号が青に変わり、二人は自然と止めていた足を動かし出す。
同時に会話も途切れ、二人は雨の中をただ歩いた。
かつてクラスメイトから借りたという傘を何故未だに彼女が持っているのか。
浩は聞かなかった。
きっかけを逃したこともあるが、それ以上踏み込むのは無粋な気がしたからだ。
やがて、氷瀬邸の前で足を止めた浩を女性が驚いたような目で見上げてくる。
「ここ、ですか?」
「そ。ここが俺の家」
「大きなお屋敷ですね」
「立派なのは家だけさ。俺自身は全然普通の人だよ」
何処か遠い目をしてそう言う浩に、女性ははぁ、と曖昧な返事を返す。
「せっかくだから上がっていくと良いよ。もうすぐ夕飯だし」
「え、でも……」
夕食をご馳走するという浩に、女性は初めて躊躇いを見せた。
「ここまで傘に入れてくれたお礼だよ。大丈夫。別に取って食べたりはしないから」
「わたし、美味しそうじゃないですか?」
「あ、別にそういう意味じゃなくて。何ていうか、そういうのは間に合ってるっていうか」
「はい?」
「いやいや、何でもないんだ。とにかく上がって」
魅力がないと言っているように取られ、慌ててそれを否定しようとする浩。
だが、慌てていたせいかとんでもないことを口走ってしまい、更に慌ててごまかす。
女性は目を丸くしていたが、どうやら普通に恋人がいるという意味に解釈したらしい。
「では、尚更お邪魔するわけにはいきません。あなたの彼女さんに悪いですから」
「あー、いや、その点は問題ないと思うんだ。彼女、ゲストは概ね歓迎するほうだから」
「でも、お互い名前も知らないような関係ですし」
「そうか。そうだったな」
浩は言われて初めてそのことに気づいた。
彼女の醸し出す雰囲気があまりにフレンドリィだったため、普通に接してしまっていたのだ。
「それじゃ、改めて自己紹介といきますか」
自分の間抜けをごまかすように、浩はおどけたような調子でそう言った。
*
彼の名前を聞いたとき、彼女はああ、と思った。
思わず上げそうになった声を飲み込んで、その意味を咀嚼する。
運命のいたずらか。それともただの偶然。いや、それこそどちらでも構わない。
その先に待っているものが何であれ、彼女はこうして目的を果たす機会を得たのだから。
自分も名乗って、これで良いだろうと言う彼に苦笑しながらも食事の誘いに応じる彼女。
「ただいま……って、ぬぉっ!?」
「遅いわよ。何やって……って、あら」
繰り出した切っ先を寸止めすると見せかけてそのまま浩の顔面に叩き込んだところで美姫はそれに気づいた。
「お客さん?」
「はい。お客さんですよ」
潰れた顔面を押さえて蹲る浩を間に挟んで笑顔で向き合う二人。
「美姫さん、卵と牛乳まだですか〜」
「あ、はいはい。とりあえず、適当に上がっててもらって構わないから」
奥から聞こえた声に答えつつ、美姫はそう言ってキッチンのほうへと歩いていった。
その手にはいつの間にか浩が持っていたはずの買い物袋が握られている。
「あの、大丈夫ですか?」
「心配するの遅くないか」
「いえ、大丈夫そうですね」
「おーい!」
何事もなかったかのように立ち上がる浩を見て、女性の笑顔が微かに引き攣る。
「とりあえず、上がって良いですか?」
「ああ、傘はそこの傘立てに」
畳んだ傘を手に立ち尽くす彼女へと浩はそう言って、先に靴を脱いで上がる。
「お邪魔します」
丁寧にそう言って後に続く彼女をリビングへと通し、適当に座っていてもらう。
お茶の一つも出すところだが、夕食まで時間があまりないので食後にということになった。
それから程無くして夕食となり、4人で囲ったその席でそれぞれに自己紹介をする。
美姫が稲妻文庫の編集者で、あの氷瀬浩の担当だと知って彼女はかなり驚いた。
そのあたりから浩が本人であることが発覚し、彼女に猛然とサインを求められたとか何とか。
それとは別の意味で彼女に驚きを与えたのが浩専属のメイド、ファミリアの存在である。
現代日本でメイドといえばコスプレかメイド喫茶くらいのものだと思っていた。
後、そっち系のAVとか。
しかし、今目の前にいる少女は絶滅したはずの本職。それも十代半ばという若さだ。
そんな本物のメイドと彼は特別な関係を結んでいるようだった。
ただの主従ではなく、明らかに男女のそれと分かるものが二人の間にはある。
当人たちは隠しているつもりのようだが、彼女には丸分かりだった。
女性の勘というのはこと色恋沙汰に関しては恐ろしいほど鋭いものだ。
そのことに彼女は落胆しながらも、それを顔に出すことはしなかった。
――そういう約束でしたからね。
内心を悟られないよう、食後に出された紅茶を一口啜ってから息を漏らす。
元々、分の悪い賭けではあったのだ。
拙かったのは、それを物語の力を借りて叶えようとしたことだろうか。
――5年間、その人のことを想い続けていればその恋は叶うかもしれない……。
足りない勇気を補うために、半人前の身で使ったのはそんなような魔法だったと思う。
それも失敗したらしい。
結局、自分の立ち位置はヒロインではなかったということなのだろう。
あるいは別の方法でアプローチを掛けていれば、また違った結末になったのかもしれないが。
ともあれ、彼女は賭けに負けた。
ここは約束に従い、潔く身を引くことにしよう。
頃合を見計らって、彼女は氷瀬邸を辞去した。
「ねぇ、浩」
カップに残った紅茶を傾けながら窓の外へと視線を向ける浩に、美姫がそう声を掛ける。
「あんた、本当はもっと前から彼女のこと知ってたんじゃないの?」
「さて、どうだろうな」
「ごまかさないでよ。彼女、あんたのことすごく懐かしそうに見てたんだから」
関心ないというふうに答える浩に、美姫の視線が鋭くなる。
「仮にそうだったとして、おまえは俺にどうしろって言うんだ?」
「どうしろって……」
珍しく冷静に切り返され、美姫は言葉に詰まる。
「先に言ったように、俺と彼女は今日が初対面だった。彼女だって、そう言ってたじゃないか」
「うっ、でも……」
「デモもストライキも勘弁してくれ。もう一杯飲んだらちゃんと仕事するから」
そう言って、浩は空になったカップに自分でティーポットから紅茶を注いだ。
――そう、これで良い。
彼女は自分の立ち位置を決めていないようだったけれど、だからこそのこの選択だ。
5年前。まだ愛の意味も掴みかねていた子供たちにはそれを知るための時間が必要だった。
約束はお互いが本当の意味でそれを知ったとき、再会するというものだった。
まるで物語のようなその約束を少女だった彼女は何処か夢見心地のままに承諾した。
――再会は5年後。
その際、まだ彼女が彼のことを好きで、彼がそのことを覚えていたならば……。
*
「あの日と同じ出会い方をしよう。そういう約束だったんです」
親切心から追いかけてきてくれたファミリアへと、彼女は少しだけ事情を話して聞かせた。
「わたしにとって、それは賭けでした。一種のロールプレイングと言っても良いでしょう」
謳うように彼女は言う。
「物語の期間は5年間。その間、わたしの想いが揺らがなければゲームクリアーです」
「そんなふうにご自分を提示するのはそのお体のせいですか?」
「分かるんだ」
彼女は少し意外そうに、そして面白いというふうに目を細めた。
「わたしの手札は恋の魔法。でも、それは同時に呪いでもある」
そう言った彼女の身体から黒い霧が噴き出す。
「そして、賭けに負けたわたしは呪いを受けなければならない」
彼女から少し離れた場所に霧が人の形へと凝縮し、そこにもう一人の彼女が現れる。
その姿は同じでありながら、何処か異質な禍々しい邪気のようなものを放っていた。
正しくそれは呪いだった。
「でも、ただそれを享受するつもりはありません」
そう言って、彼女は肩幅に開いた足の片方を半歩引いて構える。
毅然と目の前の敵を見据えるその表情は、決して敗者のそれではなかった。
呪いの彼女が吠える。
ファミリアは動かない。
この戦いは彼女のもので、彼女自身が打ち勝たなければ意味がないからだ。
「神気召請……」
彼女が唱え、それに応じるように彼女の手に神聖なる気が集う。
「極天、夢魔天昇」
唇からそっと紡ぎ出された言葉を合図に、彼女の手から光の本流が放たれる。
音もなく、ただ光は滑るように呪いの彼女へと吸い込まれ、無音のままにそれを消し去った。
それはあまりにあっけない決着だった。
「ふぅ……」
彼女はかざしていた手を下ろすと、大きく一つ息を吐いた。
「終わりましたか?」
「はい、終わりました」
確認のために尋ねたファミリアへと、彼女は何処か晴れやかな笑みを浮かべてそう答える。
「では、わたしはこれで」
「待ってください」
そう言って立ち去ろうとする彼女に、ファミリアは慌ててあの青い傘を差し出す。
「それは元々、彼のものです。わたしが受け取るわけには」
「じゃあ」
寂しそうな笑みを浮かべて首を横へと振る彼女に、少女は今度は自分の赤い傘を差し出した。
「このまま濡れて帰ったら風邪を引いてしまいます」
「そうかもね」
「はい。ですから、これを」
「わたしにまだゲームを続けろって言うの?」
ファミリアの意図に気づき、彼女はすっと目を細める。
「さぁ。わたしはただ、あなたの忘れ物を届けにきただけですから」
「その青い傘はもうあなたと彼の物よ。わたしは賭けに負けたんだから」
「おっしゃっていることの意味がよく分かりませんが」
降りしきる雨の中、二人は笑顔で対峙する。
「……分かったわ」
先に折れたのは彼女のほうだった。溜息を漏らしながらそう言って少女の赤い傘を受け取る。
「その代わり、後悔しても知らないから」
浮かべた笑みに不敵な色を滲ませて、そう宣言する彼女。
「ええ、楽しみにしてますね」
その彼女へと少女は相変わらず笑顔のままで傘を渡し、自分は彼の青い傘を差す。
「そういえば、お名前を伺ってませんでしたね」
「自己紹介はご飯のときにしたと思うけれど?」
今度こそ立ち去ろうと背を向けたところへそう声を掛けられ、彼女は怪訝な顔で振り向いた。
「いいえ、あなたの本当の名前をわたしはまだ知りません」
「そういうあなたこそ、ファミリアっていうのは使い魔って意味よね」
「ええ、でも、それがわたしの本名ですよ」
「そう、じゃあ、わたしもきちんと名乗らないと失礼ですね」
彼女はそう言ってファミリアに向き直ると、改めて自分の名前を口にした。
「わたしの本当の名前。そう、わたしの名前は……」
*
――数日後。
「そういえば最近、うちの編集部に新しい子が入ったのよね」
朝の氷瀬邸の食卓で、徐に美姫がそう言った。
「何っ、それは本当か!?」
「うん。しかも、あんたの担当よ」
「うおぉぉぉっ、やっと、やっと美姫地獄から解放される日が来たのかっ!」
「失礼ね。っていうか、いつわたしがあんたの担当から外れるって言ったのよ」
狂喜の叫びを上げる浩を冷ややかに見下ろしつつ、美姫はそう言ってカップを傾ける。
「えっ、だ、だって、今新しい担当が来るって」
「言ったわよ。その子とわたし、二人であんたを監視するの。喜びなさい」
「そ、そんな……」
ショックのあまり崩れ落ちる浩を尻目に、美姫はカップを置いて席を立った。
「ほら、バカやってないでちゃんとしなさい。来たみたいよ」
美姫のその言葉を合図にしたかのように、来客を告げるインターフォンの音が鳴った。
それに応対すべく、パタパタとスリッパの音を響かせてファミリアが玄関へと向かう。
美姫に言われた浩ものろのろと起き上がって身形を整えると、彼女の後に続いた。
「それにしても、新しい担当か。一体どんな娘なんだろう」
「すぐに分かるわ。そう、すぐにね」
何やら不穏な笑みを浮かべる美姫に身震いしながらも、浩は玄関へと通じる扉を開けた。
「あ」
そこに立っていた人物の姿を見て、浩は思わずぽかんとした表情になる。
「はじめまして。新しく担当させていただくことになりました。虹沢恋歌です」
悪戯の成功した悪童のような笑みを浮かべた彼女がそこにいた。
「よろしく!」
あとがき
龍一「サーバー移転完了おめでとうございます〜!」
蓉子「って、いつのことを言ってるのよ、あんたは」
龍一「あれ、おかしいな」
蓉子「普通、記念SSっていったら数日のうちに贈るものでしょう。それをあんたって生物は」
龍一「待て待て待て。っていうか、何故こっちでは出番のないおまえがあとがきに出てきてる」
蓉子「何か今不穏当な発言が聞こえたような気がするんだけど」
龍一「良いから理由を説明しろ」
蓉子「ふっ、それはね。あんたを成敗するためよ!」
龍一「何っ!?」
蓉子「悪あるところにあたしはあるのよ。くらえ必殺、シルバーブレイムアタックっ!」
龍一「ぬわわっ、光線を照射するなんて、やっぱりダイ○ーン3じゃ……」
蓉子「沈黙せよっ、フォックスクラァァァッシュ!!」
龍一「うがぁぁぁっ!?」
蓉子「ビクトリー!」
龍一「ふっ、甘いぞ。そうやってノリノリの時点で既におまえの負けなのだ」
蓉子「なっ!?しまった」
龍一「だからおまえはアホなのだ。ダァァァァクネスフィンガァァァァァァッ!」
蓉子「調子に乗るなっ。究極奥義、邪妖天昇拳!」
龍一「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、……というわけで、サーバー移転お疲れ様でした」
蓉子「はぁ、はぁ、はぁ、記念SSの投稿が遅れたことに関してはこのバカ共々、深くお詫びいたしますです、はい」
二人「そ、それでは、また〜。…………ばたんっ」
*
安藤さん、ありがと〜。
美姫 「サーバー移転記念に、ファミリアの番外編〜」
新キャラですよ、新キャラ。
美姫 「また、可愛らしい子ね〜」
うんうん。にしても、このお話の浩は良いよな。
同姓同名なのに、良い身分だ。
美姫 「メイドがいるから」
ああ!
美姫 「その代わり、こっちでは私がいるじゃない♪」
…………ふっ。
美姫 「うわっ! 何かむかつくわ」
ちょ、ま、待て待て待て!
美姫 「問答無用!」
ぶべらっ!
美姫 「ったく、バカのくせに。安藤さん、ありがとうございました〜」
ピクピク……。