私立マリとら学園………。

明治34年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のために作られたという、伝統ある学校だった。

しかし近年、高等部からは男子生徒の入学も認められ、より一層活気が溢れた。

最大の特徴はスール(姉妹・兄弟)制である。

上級生が下級生に姉妹の契りの儀式を行い、ロザリオを授受するといったシステムである。

姉(兄)になった先輩は妹(弟)の指導を行うのである。

これは、共学化と言う流れにあえて乗った上村佐織学園長の英断若しくは道断の果ての物語である。





『マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜』


A spiral encounter



    多重騒ぎの月曜日  Episode A 「Obverse」



     1



「お待ちなさい」
 とある月曜日。
 銀杏並木の先にある二股の分かれ道で、福沢祐巳は背後から呼び止められた。
 マリア像の前であったから、祐巳は一瞬マリア様に呼び止められたのかと思った。そんな錯覚を与えるほどに凛とした、よく通る声だった。
 声を掛けられたらまず立ち止まり、その上で「はい」と返事をしながら、身体全体で振り返る。不意のことでも、慌てた様子を見せてはいけない。ましてや顔だけで「振り向く」なんて行為、淑女としては失格。
 あくまで優雅に、そして美しく。少しでも、上級生のお姉さま方に近づけるように。
 だから振り返って相手の顔を真っ直ぐとらえたら、まずは何をおいても笑顔でごきげんよう――。
 しかし残念ながら、祐巳の口から「ごきげんよう」は発せられることはなかった。
「――――」
 その声の主を認識したとたん絶句してしまったから。
 辛うじて跳び上がらなかったのは、マリとら学園の生徒としてはしたない行為をしないように日頃から心がけていた成果、……というわけでは決してない。驚きの度合いが激しすぎて、行動が追いつかないまま瞬間冷凍されてしまっただけなのだ。
「あの……。私にご用でしょうか」
 どうにか自力で半生解凍し、祐巳は半信半疑で尋ねてみた。もちろん、彼女の視線の先に自分がいる事と、その延長線上に人がいない事は既に確認済み。それでもやっぱり、疑わずにはいられない。
「呼び止めたのは私で、その相手はあなた。間違いなくってよ」
 間違いない、と言われても。いいえお間違いのようですよ、と答えて逃げ出してしまいたい心境だった。声をかけられる理由に心当たりがない以上、頭の中はパニック寸前だった。
 そんなことなど知る由もないその人は、うっすらと微笑を浮かべ、真っ直ぐ祐巳に向かって近づいてきた。
 学年が違うので、このように間近でお顔を拝見することなどない。ちゃんとお声を聞いたのも、今回が初めてだった。
 腰まで伸ばしたストレートヘアは、シャンプーのメーカーを教えて欲しいほどつやつやで。この長さをキープしていながら、もしや枝毛の一本もないのではないかと思われた。
「持って」
 彼女は、手にしていた鞄を祐巳に差し出す。訳もわからず受け取ると、からになった両手を祐巳の首の後ろに回した。
(きゃー!!)
 何が起こったのか一瞬わからず、祐巳は目を閉じて固く首をすくめた。
「タイが、曲がっていてよ」
「えっ?」
 目を開けると、そこには依然として美しいお顔があった。何と彼女は、祐巳のタイを直していたのだ。
「身嗜みは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
 そう言って、その人は祐巳から鞄を取り戻すと、「ごきげんよう」を残して先に校舎に向かって歩いていった。
(あれは……あのお姿は……)
 後に残された祐巳は、状況がわかってくるに従って徐々に頭に血が上っていった。
 間違いない。
 二年松組、小笠原祥子さま。ちなみに出席番号は七番。通称『 紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》』。
 ああ、お名前を口にすることさえもったいない。私のような者の口で、その名を語ってしまってもいいのでしょうか、――そんな気持ちになってしまう、全校生徒のあこがれの的。
(そんな……)
 恥ずかしさに沸騰寸前である。
(こんなのって、ないよ)
 祐巳はしばらく呆然と立ちつくしていた。
 憧れのお姉さまと、初めて言葉をかわしたというのに。こんな恥ずかしいエピソードなんて、ひどすぎる。
 マリア様の意地悪。
 悔し紛れに見上げたマリア様は、いつもと変わらず清らかな微笑を浮かべて、小さな緑のお庭の中にひっそりと立っていらっしゃるのであった。





     2



「なーんだ、そんなこと」
 前の席の桂さんは、話を聞くなりコロコロと笑った。
「暗い顔してご登校。私はまた、電車で痴漢にでもあったのかと思った」
「痴漢の方がましだったかも」
「どうして」
「後をひかない」
「祐巳さん、さては痴漢にあった事無いな?」
「私、バス通学だもの」
 マリとら学園の生徒は、大概はJRのM駅北口から出ている循環バスを利用して通学している。二人ともそれは同様なのだが、桂さんの場合M駅までメチャメチャ込む上り電車、祐巳はM駅南口までバス、という具合に通学における不快度(快適度)がまるで違っている訳である。
「でも、最近はマリとら車両が出来たっていう話じゃない?」
「出来た、と言うか、山百合会の幹部メンバー達の呼び掛けでマリとらの女生徒は示し合わせて、後ろから二両目に固まって乗車するようにしただけよ。でも日直とか部活とかで少し早く出てきたりすると、生徒の数が少ないからあまり意味が無いし……」
 それでも噂を聞きつけて、マリとら以外でもその車両を選んで乗車する女子学生が増えているようで、痴漢撃退対策に効果はあるらしい。もちろん男性を締め出す効力は何も無いのだが、若い女性で溢れた車内に進んで乗り込む勇気のある殿方はあまりいないらしい。ましてや不審な動きなど出来よう筈が無い。
 マリとらの女子制服は、緑を一滴落としたような光沢の無い黒い生地を使用していて、どこまでも上品。黒のラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーは、そのまま結んでタイになる。今時、ワンピースで、ローウエストのプリーツスカートは膝下丈。三つ折り白ソックスにバレーシューズ風の革靴がセットされてしまえばもう、天然記念物もので、制服マニアはもちろん一般人の中にも根強い人気がある。
 人目を引くこの制服は、既にお嬢さまブランドとして確立している。ただでさえセーラー服は狙われやすいというのに。
「電車が込んでいるから、私は駅で必ず身嗜みチェックするわよ」
 桂さんはそう言いながら、祐巳を駅の鏡に見立てて、前髪を直しタイを結び直す仕草をしてみせた。こんな風にね、といった感じ。
「そうか。迂闊だったぁ」
 祐巳は机に突っ伏した。すると桂さんが、その頭を「よしよし」と撫でる。
「まあね。優雅に座って通学出来るような人は考えつかないわよ。気にしない気にしない」
「気になるわよ!」
「こっちが忘れちゃえば、問題無しじゃないの?」
「どうして?」
「だって相手はマリとら学園のスターよ? スターは素人の事なんか、いちいち覚えてやしないわよ」
 スターと素人。
 本当の事だけど、いや、だからこそグサッときた。桂さんの慰めは、祐巳にはちょっとばかし荒療治だった。
 ちなみに、桂というのは名前であって苗字ではない。マリとらではニックネームというものはほとんど存在しない。同級生同士は名前に「さん」をつけて呼び合うのが慣例となっている。上級生を呼ぶときは、名前に「さま」だ。
 最も、三年前に共学化してからはその慣例にも例外が加わった。いくら「さん」付けとは言え異性の名前を呼ぶのは両者共に憚られ、異性間に関しては名前ではなく苗字を遣う人が多く、「さん」だけでなく「君」も使われる。男子学生同士では苗字の呼び捨てが多いし、ニックネームは親しさの証というより人気の証明のようだ。
「声かけられて萎縮しちゃうのは、仕方ないわよ。『山百合会』の幹部に声をかけられて平気な一年生なんて、うちのクラスじゃ彼女くらいなものだもの」
 そう言って、桂さんはチラリと視線を後方に向けた。祐巳がその先を追うと、ちょうど藤堂志摩子さんが教室に入って来た所だった。
「ごきげんよう、桂さん。ごきげんよう、祐巳さん」
 志摩子さんは二人に挨拶すると、優雅に自分の席に進んでいく。
「ご、ごきげんよう」
 祐巳と桂さんは、「何を照れているのよ」とお互いに顔を見合わせた。
 同級生なのに、何という違い。祥子さまとは全然違うが、志摩子さんも超がつくほどの美人だった。
 彼女を見ていると、綺麗な人というのは小さい頃から綺麗なのだと、がっかりしてしまう。高校二年生になれば、祥子さまのように突然美しくなれるという希望的方程式は、だからたぶん存在しないのだ。
「聞いた?」
 桂さんが囁いてきたので、祐巳も声をひそめた。
「志摩子さんが『白薔薇のつぼみ』になった話でしょう? 二年生を通り越して」
 それは有名な話だった。少し前に、志摩子さんが一年生でありながら白薔薇さまと姉妹の契りを結んだという話は。
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
 最新スクープとばかり指を唇の前に立てて、桂さんは「お姉さまから聞いたんだけど」と言った。彼女の『姉』はテニス部の先輩で、確か祥子さまと同じクラスだった。
「志摩子さん、白薔薇さまだけじゃなくて、祥子さまからも申し込まれていたんですって」
「えー!!」
「祐巳さん、声が大きい」
 机一つ挟んで、背を丸める二人。淑女とは言い難い光景であるが、その辺本人達は気がついていない。――マリア様お許しください。いつの世も、女性は他人の噂話が大好きなんです。
 そもそもマリとら学園高等部に存在するスール(姉妹・兄弟)というシステムは、生徒の自主性を尊重する学校側の姿勢によって生まれたといえる。義務教育中は教師及びシスターの管理下におかれていた学園生活が、生徒自らの手に委ねられ、自分たちの力で秩序ある生活を送らなければならなくなった時、姉が妹を導くごとく先輩が後輩を指導するという方法が採用された。以来それを徹底する事により、特別厳しい校則がなくとも、マリとらの清く正しい学園生活は代々受け継がれてきたのだ。
 スールはフランス語で姉妹のこと。たぶん、シスターでは混乱するため、英語を避けたものと思われる。最初は広い意味で先輩後輩を姉妹と呼んでいたが、いつの頃からか個人的に強く結びついた二人を指すようになっていった。ロザリオの授受を行い、姉妹となる事を約束する儀式がいつ頃から始められたかは定かではない。
 しかし平成の今日でもスール制は形を変えて続けられており、最近では異性間のスールも散見する。
「聞く所によるとね、祥子さまの方が先だったのに、後から来た白薔薇さまの差し出された手を取ったらしいわ」
 桂さんは鼻を鳴らして言った。何だか興奮している。
「紅より白の方が良かったのかしら」
「そういう問題じゃないでしょう。もう、……祐巳さんたら、少しズレてるんだから。いい? 志摩子さんクラスになると、二つの薔薇を両天秤に掛ける事が出来るって事よ」
「天秤に掛ける、なんて人聞きの悪い」
「でも、事実祥子さまが捨てられたのよ」
「うーん」
 勿体無い事をするものだ、と祐巳は思った。
「うーん、じゃないわよ。ひどいと思わないの?」
「どうして? 二人をお姉さまに出来ないなら、どっちか選ばなきゃ駄目じゃない」
「後から申し込んだ方を選んで良いの?」
「早いもの勝ちじゃないでしょう」
「早いもの勝ちよ!」
 桂さんは肩で息を切らしながら、ズバリ言いきった。そういえば、彼女の場合はテニス部に入ったその日のうちに姉妹の儀式をしたんだっけ。
「時に、黄薔薇は?」
「黄薔薇ファミリーは三年二年一年、すべて安泰じゃない」
「そうよね」
 祐巳にとっては、白薔薇さまと紅薔薇のつぼみが志摩子さんを取り合った事実より、最近まで双方に『妹』が存在していなかった事の方が驚きだった。
「どっちにしろ、祥子さまに申し込まれて即お受けしなかった事実には変わりないわよ」
 そう言いながら、桂さんは時計を見た。
 朝拝の鐘が鳴る。
 続いて校内放送で賛美歌が流れる。週一度のお聖堂朝拝以外は、教室で朝のお祈りをする。まず聖歌を歌い、学園長の話を聞き、心を静めて神に祈りを捧げるのだ。
 今日一日、正しく暮らせますように。
 けれど、手を合わせながらもいつもの平穏な生活から外れていくような予感を祐巳はどこかに感じていた。





     3



「祐巳さん、祐巳さん」
 放課後、掃除当番だった音楽室から出た所で祐巳は声を掛けられた。
「あ、蔦子さん。お教室の掃除はもうお済み?」
「ええ。ですから行き違いにならないように、早足で参りましたの。祐巳さん、鞄を持って掃除にいらしたみたいだから」
 一年の教室から結構離れているので、音楽室の時は鞄持参で掃除に行く。その方が昇降口にもクラブハウスにも近いから、帰るにしても部活に行くにしても便利なのだ。
「何か、私にご用でも?」
「少々お話が」
「お話?」
 聞き返すと、蔦子さんはフレーム無しの眼鏡の両目の間に指をかけながら「ええ」と頷いた。
「じゃあ、祐巳さん。私達は、部活もあるので先に失礼しますね。掃除日誌は、職員室に返しておきますから」
 一緒に掃除当番をしていた三人が、無垢な瞳で微笑んだ。
「まあ、……ありがとう」
「いえ。お気になさらないで。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 カラスの濡れ羽色の制服が、緩やかに廊下を流れていく。その姿を、蔦子さんと並んで見送った。
「私が、写真部に所属しているのはご存じよね?」
 蔦子さんは祐巳に向き直ると、唐突に言った。
「え、……ええ」
 有名人ですから。
 授業中以外は、ほぼカメラを手放さない。シャッターチャンスを逃した時の悔しさを思うと、そうせざるを得ないという話を、いつだったか聞いた事がある。高等部に入学して初めて同じクラスになったが、いつ撮られていたか解らない写真を二度三度貰った事がある。カメラの腕なんてよくはわからないけれど、平凡な祐巳の顔が三割増しくらいに可愛らしく写っていた。
「学園祭が近いじゃない? だから私、この所朝早く出て来て部活の早朝練習風景を撮ったりしているの」
 彼女の被写体は、もっぱら人物だ。細かく言えば、「女子高生」がテーマ。そこまでは良いんだけれど、あまり構え過ぎると良い写真が撮れないという事で、隠し撮りまがいの真似をする。
「蔦子さん。覗き見みたいな撮り方、やめた方が良いのと違う?」
「現役のマリとら学園生徒という特権を生かさずして、どうするの! 私は、美しいものを美しいままにフレームの中に閉じこめておきたいだけなの。私達もいずれは年老いてしまうけれど、『今』を輝いているままで保存出来る。それはカメラに選ばれた私が、天から与えられた義務なのよ」
 拳を力一杯振り上げた。
「それでもねぇ」
「大丈夫。被写体には、それぞれ筋を通しているから。ボツ写真は、ネガごと燃やすし。発表する場合は事前に必ず本人の同意を得ているわ」
「筋?」
「こんな風にね」
 蔦子さんは二枚の写真を祐巳に差し出した。
「何?」
 三、二、一。
 それがどんな写真であるのかわかるまで、きっかり三秒は要した。
「えー!!」
 祐巳はリリアンの生徒にあるまじき大声を出して、蔦子さんから口を押さえられた。
「こ、これっ」
 ああ、それは。
 記憶の中からすっぽりと消し去ってしまいたい、朝の光景。小笠原祥子さまと祐巳との、ツーショット写真だった。
 それにしても、さすが写真部のエース。シャッターチャンスは逃していない。祥子さまの両手は、しっかり祐巳のタイを握っていて。結び終わった時の、キュッっていう音までも聞こえてきそうだった。
 鞄を落としそうになりながら、祐巳は尚も食い入るように写真を見つめた。
 やっぱり、祥子さまはお美しい。側にいる祐巳までも、つられて天使のように写っていた。
「一枚は望遠で撮ったからアップね。でも、こっちの、全身が写っている方が『いけない』雰囲気出ていて良いと思わない?」
 ちなみにタイトルは『躾』、と言う蔦子さんに、祐巳は縋り付いた。
「これ、ちょうだい!」
 祐巳が言ったと同時に、蔦子さんは写真を取り上げて笑った。まるで思惑通りに魚が釣り糸に引っかかったといった表情で。
「良いけど。二つばかし条件が」
「条件?」
「その一。学園祭の写真部展示コーナーにパネルで飾らせる事」
「えっ……」
 展示? パネル? 蔦子さんは何を血迷っているんだろう。
 勉強も身長も体重も容姿も、全てに於いて平均点の自分と、全ての条件を満たした小笠原祥子さまとを並べて全校生徒の前に晒そうだなんて、なんと無謀な。
「蔦子さん。ご冗談でしょう?」
「ご冗談なものですか。この写真は今年一番の出来だと、撮った時から確信していたの。だから昼休み返上で現像したのよ」
 そう言ったと同時に、蔦子さんのお腹からは淑女らしからぬグーという音が聞こえてきた。なるほど、お弁当は手つかずのまま鞄の中で眠っているらしい。趣味とは、育ち盛りの食欲をも越えてしまうわけだ。
「でも、パネルって……」
 祐巳は俯いた。
「この写真いらないの?」
 蔦子さんは二枚の写真を摘むと、祐巳の顔の前でチラチラと揺らした。
「私は知っている。あなたが密かに小笠原祥子さまに憧れているという事を。それなのに、ツーショットはおろか、バストショットの写真一枚所持していない事実も。修学旅行の写真が職員室の前に張り出された時、良い写真がいっぱいあったのに学年が違うから申し込めずに悔しい思いをしたわよね? 部活をやっていないあなたは、二年の先輩に頼んで買って貰う事すら出来なかった。辛うじて持っているのは、運動会の時の写真。あなたの背後に偶然写っていたリレー待ちの祥子さまは、米粒とまではいかないけど、豆粒ほどの大きさだったわ」
「失礼な。鉛筆くらいはありました。あれでも、大切にしているんだから」
 蔦子さんは、今すぐ私立探偵をやれそうだ。
「その鉛筆で、今日以降もあなたは満足できるのかしら」
 眼鏡のレンズが、フラッシュのようにキラリと光った。
「……罪つくり」
 こんなに良い写真を見せられたら、以前のもので我慢出来る訳無いじゃないか。
「けど、祥子さまが駄目だって言うかもしれないんじゃない?」
「だからね」
 蔦子さんは人差し指を一本たてて、得意げに笑った。
「条件のもう一つは、紅薔薇のつぼみに許可を貰ってくる事」
「ええっ!? そんなの、無理よ! 絶対無理」
 また、とんでもない事をサラリと言ってくれる。
「どうして?」
 蔦子さんは目を丸くした。
「こんなに親しげなのに。まるで『姉妹』のよう」
「まさか!」
 祐巳は説明した。今朝、登校途中に偶然声をかけられて、何事かと思ったら身嗜みを注意されただけなのだ、と。
「まあ。それなのにタイまで直して戴くなんて、同級生達が知ったらさぞかし羨ましがるでしょうね」
「羨ましいですって?」
 思い出しただけで、赤面が復活しそうだ。
「祥子さまは、きっとだらしのない生徒だと思ったわ」
 本当は、あんな筈じゃなかった。
 いつか、近い未来に訪れるであろう憧れのお姉さまとの出会いは、もっと美しいシチュエーションであるはずだった。
 例えば、映画のワンシーンのように。卒業してからも、思い出すだけで心が熱くなるような。それは、一瞬だけで良い。風に飛ばされた祥子さまのハンカチを拾って差し上げるとか、そんな些細な出来事で。
 それが、曲がったタイだなんて。おまけに慌てふためいて、挨拶もお礼も言えない礼儀知らずの下級生に成り下がっていた。
「だらしない生徒、結構じゃない? あなた、そのお陰で憧れのお姉さまに接近出来たんでしょう?」
「う……っ」
 それを言われると、辛い。タイが曲がっていなかったら、一生声なんか掛けて貰えなかったに違いないのだ。
「蔦子さん、自分で交渉したら? いつもは、そうしているんでしょう」
「いくら怖いもの知らずの蔦子さんとはいえ、さすがに山百合会の幹部は恐ろしい」
 山百合会とは、マリとら学園高等部の生徒会。その幹部、紅白黄黒の薔薇さまと言えば、生徒でありながら一般の生徒とは別格の地位にいる殿上人なわけである。祥子さまは、その紅薔薇さまの妹だった。
「それにね。ここは祐巳さん、あなたを使う事が交渉に有利と見た」
「ど、どうして」
「祥子さまの目にとまったから」
「だから、それはタイが――」
「ただタイが曲がっていたくらいで祥子さまが直してくれるなら、マリとらの女生徒全員がタイをほどいて歩くわよ」
 蔦子さんはズバリと言い切った。
「まさか」
「実際、私はそういう計算ずくの一年生を見た事があるのだ」
 目に止まりたい一心で、わざとタイをゆるめて祥子さまの前を通り過ぎるという、大胆な行為を実行した一年生がどのような末路をたどったか。蔦子さんは、まるで舞台中央でスポットライトをあびる主演女優さながらに、朗々と語った。
「特に祥子さまは、学園一の潔癖性。だらしない身なりがお嫌いで有名だから、そんな馬鹿な事をしてしまう愚か者が出ちゃったんでしょうけれど」
 正しい精神を宿す為には、まず身嗜みから正しなさい――。幼稚舎からであれば約十一年間、ことあるごとに言われ続けたその教えを破ってまで、憧れの先輩に声を掛けて貰おうとしたその彼女を待っていたものは、祥子さまの冷ややかな一瞥。そして無視。
 だがそれだけでは済まなくて、その生徒のお姉さまを呼び出して注意したという後日談があるという。
「祥子さま、……怖い」
「今頃知ったの? 小笠原祥子さまは、怖いわよ。こと、筋が通らない話に限ってだけだけれど」
「その、怖い祥子さまに、私を立ち向かわせようと……?」
 恐ろしいのは、蔦子さんも同じだと思う。
 すでに祐巳は、逃げ腰になっていた。上履きのつま先は、しっかり昇降口の方向を向いている。
「わかっていないわね、祐巳さん。祥子さまだって鬼じゃないわよ。むしろ、天使。大天使ミカエル様」
「だ、大天使ミカエル様……?」
 何を言っているんだか、自分ではわかっているんだろうか。蔦子さんは遠い目をしていた。
「あの方はね。本来、気高く寛容なお方なの。ただし、ご自分の美意識に反する行為に関してだけは、断じて許されない。生まれながらのお姫さまだからね。あの方の中には、あの方独自の法があるのよ」
 蔦子さんは、一人で突っ走っている。祐巳はたまらず、「はい」と挙手をしてから言った。
「蔦子さん、私、国語の成績は中の中なんだけれど」
「はい?」
「もう少し、レベルを落として説明していただけない」
「レベルを落とせ?」
「つまり、もう少しわかりやすい言葉でお願い」
 うーん、と蔦子さんは腕組みをした。自分の中で出来上がった理論を、他人に伝える事は本当に難しい。
「簡単に言えば、祥子さまは理不尽には怒らないから大丈夫、って言う事。あの方がお怒りになる事は、常に道理が通っている事」
「だから?」
「安心して説得して頂戴♪」
「どうして、私が」
「ウマがあいそうじゃない? あなたと祥子さま」
 もう、蔦子さんの思考回路、さっぱりわからない。
「何を根拠に」
「根拠? 根拠なんて無いわ。こういうものは、勘よ。直感」
 下級生のタイごときに関わるようなお方ではない祥子さまが、今朝に限って声を掛けて注意したばかりか、自らの手で結び直したというのは快挙である。蔦子さんはそう力説した。
「本人は気づかなくても、気の合う人間って知らずに歩み寄っていくものなのではないかしら」
「また、訳のわからない事を」
 つまりは、自分かわいさに、嫌な用事を祐巳に押しつけているだけなのではないだろうか。
「だらしない女の子だと思われた、と気に病むくらいなら、別のイメージにすり替えれば良いじゃない。『今朝は注意していただき、ありがとうございました』って丁寧にお礼を言えば、礼儀正しい女の子になれるわよ」
「うー。蔦子さん、口が上手過ぎる」
「ありがとう。弁論部に誘われた事もあるのよ」
 ふふん、と笑ってみせる表情は、演劇部からも勧誘されそうなくらい堂に入っていた。
 それから十分後、祐巳は山百合会の本部である『薔薇の館』の扉前に立たされていた。
 最後は「写真、いらない?」という蔦子さんの殺し文句に押し切られ、祥子さまに交渉する役を引き受けさせられてしまったのである。



REI-COTERIEさん、初投稿ありがとうございます。
美姫 「今回の話は、マリみての原作に沿ったお話ね」
うんうん。お話の触りの部分だな。
美姫 「次回以降がどうなるのか、楽しみね」
ああ。黒薔薇というのが新たに加わっている山百合会。
次回以降はどんなお話が待っているのか。
美姫 「それでは、また次回で〜」



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