『マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜』




マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜


私立マリとら学園………。

明治34年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のために作られたという、伝統ある学校だった。

しかし近年、高等部からは男子生徒の入学も認められ、より一層活気が溢れた。

最大の特徴はスール(姉妹・兄弟)制である。

上級生が下級生に姉妹の契りの儀式を行い、ロザリオを授受するといったシステムである。

姉(兄)になった先輩は妹(弟)の指導を行うのである。

これは、共学化と言う流れにあえて乗った上村佐織学園長の英断若しくは道断の果ての物語である。





マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜


A spiral encounter



    多重騒ぎの月曜日  Episode C 「Confluence」



     1



 マリとら学園高等部の生徒会、その名はマリア様のお心にちなんで山百合会と言う。
 マリア様の心は、青空であり、樫の木であり、ウグイスであり、山百合であり、そしてサファイアなのである。それは、幼稚舎に入ってまず最初に覚えさせられる歌にあった。
(しかし、どうしてサファイアなんだ……?)
 子供心に不思議に思い、未だにそれは引きずっている。青空、樫の木、ウグイス、山百合ときて、なぜサファイアなのか、と。
 マリア様のお心を美しいものに喩えているのだろうけれど、宝石という俗物的な物を空や動植物と同列に並べる事にどうしても違和感を覚えた。それにサファイアは高価な物だから、青空を見上げるくらい同等に誰もが平等に身を飾る事など出来ないと思ったのだ。
(でも、祥子さまクラスのお嬢さまなら、サファイアに違和感なんか感じないんだろうな)
 薔薇の館の前に立った祐巳は、ぼんやりとそんな事を考えていた。
 名門私立高と呼ばれるマリとら学園の生徒は、比較的裕福な家庭の子供が多い。幼稚舎からこの学校に通っている祐巳も、父親が設計事務所を開いているから一応は社長令嬢と言えなくもない。
 クラスメイト同士、父親の職業をわざわざ教えあったりはしないが、日常的な会話から漏れ聞こえてくる所によると、医者とか弁護士とか中小企業の社長とか、大企業の部長とか、大学教授とか、確かに偉そうな肩書きも少なくない。
 しかし、今から訪ねる小笠原祥子さまは、そんじょそこらのお坊ちゃまお嬢さまとは格が違った。百貨店からレジャー施設まで幅広く経営する小笠原グループの会長の孫娘で、母の実家は元華族という、家柄も正しいお姫さまなのだ。


 薔薇の館は館と呼ばれているものの、高等部校舎の中庭の隅に建っている教室の半分ほどの建坪の小さな建物であった。しかしれっきとした生徒会だけの独立した建物であり、木造二階建てという外観を見れば、館という趣は確かにある。
「祥子さまは、本当にここにいるかな」
 祐巳はノックの為に前に突き出した拳を一旦下ろし、蔦子さんに声を掛けた。
「教室にはいなかったじゃない。山百合会の幹部の方たちは、学園祭準備で連日放課後は薔薇の館に集まっているっていう話よ」
 そう言いながら、蔦子さんは祐巳を再び扉の方に向き直らせた。あくまで、彼女は付き添いという立場でそこにいるらしい。メインは祐巳。いったい、誰の用事でここまで来ているんだと文句を言いたいが、ツーショット写真をゲットするまでは、じっと我慢である。それに蔦子さんの言うように、上手くいけば朝の汚名を返上出来るし、あわよくば親しくお話し出来るかもしれないのだ。
「そう。連日来ているんだ……」
 と言う事は、もう後には引けないという事だ。
 祐巳はもう一度拳を上げた。しかし、なかなかその拳で木の扉を打ちつけるまではいかない。
(ああ、何て気弱な)
 しかしごく普通の一年生なら、祐巳に限らずこの扉を叩くのはかなりの度胸がいる事ではないだろうか。それを知っているからこそ、蔦子さんも急かさないのだ。「ノックくらいさっさと出来ないの?」と言われたら、「じゃあ、あなたがやって」と切り返してやろうと、祐巳は心の中で思っていた。
 握った手の平に、汗を感じた。おかしいな、汗ばむ陽気ではないのに。
 ドキドキ動悸が激しくなり、そのうち足も震えてきた。
 扉が開いた先に何が待っているのか、まるで未知の世界だった。
 やっぱり無理、と拳を下ろした時、二人の背後から声が聞こえた。
「山百合会に、何かご用?」
「はっ!?」
 祐巳と蔦子さんは、バネ仕掛けのように振り返った。
「あら、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
 そこに立っていたのは、藤堂志摩子さんだった。
 祐巳はホーッと息を吐いた。まだ心の準備が出来てない所に祥子さまが現れでもしたら、気絶ものである。気絶はオーバーにしても、取り乱して今朝以上の失態をやらかしてしまうのは確実。
「志摩子さんこそ、どうして………」
 祐巳が言いかけると、横の蔦子さんが「ばかね」と軽い肘鉄をした。
「志摩子さんは白薔薇のつぼみなんだから、ここにいるのは当たり前じゃない」
「あ、そうか」
 彼女は「普通の一年生」ではないんだった。
「祐巳さんと私、紅薔薇のつぼみにお話があって参りましたの。志摩子さん、取り次いで頂けないかしら」
 蔦子さんは丁度良いとばかりに、クラスメイトの志摩子さんに話をつけようとした。同じつぼみでも、白と紅では気安さが随分違った。
「あら、そう言う事だったら、お入りになったら? 祥子さまは多分二階にいらっしゃると思うし」
 志摩子さんは柔らかな巻き毛を揺らしながら、扉を開けて怖じ気づく二人に手招きをした。
 綺麗なだけじゃなくて、優しくて可愛い人だったんだ。藤堂志摩子さんって。祐巳はぽーっと見とれてしまった。
 これなら、祥子さまと白薔薇さまが取り合いもするよなぁ。だって、一緒に並んで歩きたくなるようなタイプだもん。色白で、柔らかそうな茶色の巻き毛で。
 それに引き替え、同じ天パーでも祐巳のはただの癖っ毛。跳ね放題の剛毛を二つに分けて、どうにかこうにかリボンで押さえているのだ。―――片や綿菓子、片やサバンナの野生動物。
「どうぞ?」
 志摩子さんは扉を押さえたまま、もう一度二人に声を掛けた。
「行こう、祐巳さん」
 ゴクリと唾を呑み込むと、蔦子さんは祐巳の腕をとった。あくまで、道連れにするつもりらしい。
 中に一歩踏み込むと、そこは不思議な空間が広がっていた。
「うわ……」
 入ってすぐは、小さいが吹き抜けのフロアになっている。向かって左にはやや急勾配の階段。二階に上り切った突き当たりに、扉ほどの大きな明かり取りのはめガラスがあるらしく、階段を真っ直ぐ下りるように夕方の日差しが階下まで伸びていた。
 フロアに人気はなかった。右手に一つとその真上に一つ部屋があるようだったが、志摩子さんの言うように一階に人が集まっている気配はない。これでは、入り口で祐巳がノックしたとしても、気づいて貰えなかったのではないかと思うと、大仕事を前にドッと疲れてしまいそうだった。
「こちらよ」
 志摩子さんはプリーツの襞を階段で擦らないように押さえながら、器用に階段を上って行った。祐巳と蔦子さんは顔を見合わせ、「うん」と頷いてから、その後に続いた。
 高等部に入学して約半年。祐巳の中で薔薇の館は、シスターの居住区と同率一位とも思える禁忌の空間であった。
「あの……、志摩子さん?」
 祐巳は、急に不安になってきた。
「はい?」
「こんなに簡単に、部外者を入れてしまって良いの?」
 最上の一段に足を掛けたまま振り返った志摩子さんは、一瞬驚いたように目を瞬かせて「まあ」と言った。
「部外者だなんて、どうして思うの? この建物は山百合会の本部として使っているから、役員たちが管理してはいるけれど。生徒全員が山百合会の会員なのよ? 尋ねてきてくれるのは、もちろん大歓迎だわ。もっとも、一度に百人もの生徒が押し寄せたりしたら、床が抜けてしまうかも知れないけれど?」
 肩を小さく竦めて、志摩子さんは笑った。
 確かに、この古い木造の建物ではせいぜいもって五十人といった所かも知れない。
 一体、いつの時代に建てられたものなのだろう。マリとらの高等部校舎だって決して新しいものではないけれど、少なくともこんな風に階段がギシギシ音をたてたりはしない。
 階段を上り切ると、右手にビスケットのような扉が現れた。先頭の志摩子さんに続いて扉の側までやってくると、中から突然耳をつんざくような声が聞こえてきた。
「だからって、どうして私がそれをしなければならないのですか!」
 扉越しだから、これはそうとう大きな声だ。薔薇の館に大声はあまりそぐわないのではなかろうか、と思っていると、再び同じ声が叫んだ。
「横暴ですわ! お姉さま方の意地悪!」
 ドアに掛けられた『会議中につきお静かに』のプレートと「意地悪」という言葉が、妙にアンバランスだった。
 すごいな。上級生を掴まえて、「意地悪」なんて言ってしまえる生徒。
 ここは薔薇の館で、中にはきっと薔薇さまはじめ、錚々たるメンバーが鎮座ましましているに違いないというのに。
 会議に出席して、「お姉さま方の意地悪」なんて、言えないぞ。普通の生徒は。
「よかった。祥子さまいらっしゃるみたい」
 志摩子さんはドアノブに手をかけた。
「えっ!?」
「と言う事は、今の声は祥子さまなの……」
 祐巳は、素直にたじろいだ。祥子さまが、あのように大きな声をお出しになるなんて。意地悪なんていう言葉を、拗ねたように言ってしまうなんて。それは、蔦子さんも同様だったらしい。
 それに対して志摩子さんは、「いつものことよ」と微笑してから、ノックもせずにゆっくりと扉を開けた。
 と、その瞬間。
「わかりました。そうまでおっしゃるなら、ここに連れてくればいいのでしょう! ええ、今すぐ連れて参ります!」
 という捨て台詞とも言える言葉とともに、一人の生徒が勢いよく部屋から弾き出されて来た。内側からドアノブに手を掛けた所で、廊下側から扉を開かれてしまった為に起きた不幸な事故だった。
「あっ!」
「うわっ!」
 人が飛び出して来たと思った瞬間、祐巳は身体の前面に軽い衝撃を受けた。次いで視界が傾ぎ天井が回って、その後すぐにお尻に激痛が走った。
 その人物は、ドアが盾になった志摩子さんでも、最後尾に控えた蔦子さんでもなく、二番手の祐巳の身体を狙ったように直撃したのだ。
 だから、先の「あっ!」が飛び出してきた人の、後の「うわっ!」というのが祐巳の声だった。
「大丈夫!?」
 志摩子さんと蔦子さんの声が聞こえた。
「う……ん」
 何が何だかよくわからない、すごい状況になっていた。
 ぶつけたのはお尻だけだったようだけれど、胸からお腹あたりにかけて「むぎゅ」っていう妙な圧迫感が残っている。おまけに、顔には自分以外の髪が覆い被さっているから、仰向けに倒れている筈なのに、辺りが良く見えなくて、方向はおろか天と地すら判別出来なくなっていた。
「痛……」
 呟きながら、上に被さっていた人物がゆっくりと身を起こした。視界が広がってまず見えたのは、間違いなく憧れの紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さまだった。彼女もまた何が起こったのか、すぐには判断出来ないようで、その場に座り込んだまま頭を小さく振っていた。
 真っ直ぐな長い黒髪が、コマーシャルのモデルみたいにサラサラとねじれて揺れて、やがて定位置に戻った。テレビと違う所は、フローラルの香りが伴っている所だった。
「あーあ。ずいぶん派手に転んじゃったわね」
「え、祥子の五十キロに押しつぶされちゃったの? 悲惨ー」
「おーい。被害者、生きている?」
 部屋の中からは、騒ぎに気がついて生徒たちがゾロゾロと出てきた。山百合総会でしかお目に掛かれないような凄いメンバーが勢揃い。紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さま。黄薔薇に至っては、つぼみもその妹までもいた。
「えっ、私が押しつぶしちゃったの!? ちょっと、あなた大丈夫!?」
 やっと状況を把握した祥子さまは、慌てて祐巳を抱き起こそうとした。
「祥子。簡単に動かさない方が良いよ。頭打っていたら大変だから」
 人波をかき分けて出て来たのは黄薔薇のつぼみ。二年菊組三十番、支倉令さま。流石は武道家の娘、受け身を失敗して脳震盪を起こしたりするケースとか良く見ているのだろう。
 しかし、セーラーカラーでローウエストのプリーツスカートという制服を着ていてなお、男装の麗人に見えるという存在もマリとらでは希少価値ではないだろうか。スレンダーな身体にベリーショートヘア。アンティークドールの着ているドレスにも似たこの制服を、袴のように着こなしていた。
「あ、大丈夫です。お尻を打っただけだから」
 祐巳はあわてて起きあがった。まだお尻はジンジンと痛んでいたが、このままでは大事になってしまいそうだ。
「本当に?」
 不安そうな顔をして、祥子さまは祐巳を覗き込んだ。
 ああ、そんなに至近距離で見つめられては、居た堪れない。綺麗なお目が汚れます。
「ええ、この通り」
 その場の空気に耐えきれず、祐巳は勢い良く立ち上がってその場でピョンピョンと飛び跳ねて見せた。いい加減、自分のピエロぶりが嫌になってしまうが、そうでもして見せないと救急車でも呼ばれかねない雰囲気があった。
「良かった」
 安堵したのか、祥子さまは祐巳をキュッと抱きしめた。胸に、さっきと同じ圧迫感。ああ、そうか。あれは祥子さまの胸の膨らみだったらしい。制服の構造上、体型の個人差は目に付き難いが、お胸はかなり豊かな方らしい。……なんて考えている場合じゃない。畏れ多くも、今、祥子さまに抱擁されているのだ。
「時に」
 抱きついたまま、祥子さまは祐巳の耳元で囁いた。
「あなた、一年生よね? お姉さまはいて?」
「は?」
 瞬間に思ったのは、タイをわざと外して自爆した一年生の事。その子の代わりに、祥子さまは彼女のお姉さまを注意した。
 でも。
 ぶつかったくらいで、姉までも巻き込むだろうか。この場合は事故と言って良いし、何より祥子さまの方が止まっていた祐巳を巻き込んだ形なのだ。
「どっちなの?」
 祥子さまは小声で急かした。
「いません……けど?」
 内緒話のような雰囲気があったので、祐巳も声を殺して答えた。すると。
「結構」
 祥子さまは密着していた身体を離すと、祐巳の手をとって薔薇さまたちの前に進み出た。
「あ、あの」
「良いから。言う通りにして」
 かなり強引。訳もわからず、それでも豪華メンバーの前に引きずられるようにして連れていかれた。
「お姉さま方にご報告致しますわ」
 扉越しのヒステリー気味な声とはうって変わって、凛としたいつもの祥子さまの声だった。
「まあ、一体何が始まるの?」
 紅薔薇さまが、知的な微笑を浮かべて尋ねた。流石、祥子さまのお姉さま。あの祥子さまを、手の平の上で転がしてしまいそうな余裕と貫禄がある。
「この子――」
 そう呟いてから祥子さまは口篭もり、祐巳に向かって「自己紹介なさい」と告げた。祐巳の名前を聞いていなかった事に、今更ながら気づいたのだ。
「あ、一年桃組三十五番。福沢祐巳です」
 祥子さまに向かって自己紹介しようとしたら、そのまま身体を半回転されてしまった。どうやら、薔薇さまたちに知らせたかったらしい。
「なるほど、フクザワユミさん。漢字でどう書くの?」
 紅薔薇さまは腕組みをして尋ねた。
「福沢諭吉の福沢、しめすへんに右を書いて祐、それに巳年の巳です」
「めでたそうで、いいお名前」
 白薔薇さまが華やかに微笑んだ。
「それで?」
 最後に黄薔薇さまが、値踏みするように上から下まで祐巳を見た。
「その、福沢祐巳さんが、どうなさって?」
 いつの間にか、祐巳は黒以外の薔薇さま方に取り囲まれてしまっていた。
 蛇に睨まれた蛙って、こんな状態を言うのだろうか。いくら名前に巳という字がついていて多少は親しみがあるとは言え、こんなのは勘弁してほしい。蛇じゃなければ、茨の森か。綺麗な薔薇には棘があると言うけれど、やっぱり薔薇さまたちはただの美しいお姉さまだけじゃない気がした。
 お尻しか打っていないけれど、目に見えない重圧に、頭がクラクラしそうだった。一体祥子さまは、気弱な一年生を捕まえて何をさせるつもりなんだか。
「お姉さま方。そんな風にして見つめるの、失礼じゃありません? ほら、祐巳がすっかり怯えてしまって」
(ゆ、祐巳……!?)
 おいおい。
 さっきまで名前も知らなかったのに、いきなり呼び捨てか? と、突っ込みを入れたい所ではあるが、相手が祥子さまだから何だかポーッとなってしまった。
 祐巳。
 名前に「さん」付けが定番のマリとらで、呼び捨てというのはごくごく親しい間柄だけに限られていた。友達みたいな親子関係がモットーなので、両親には「祐巳ちゃん」と呼ばれている。祐巳なんて呼ぶのは、最近生意気になってきた弟くらいなものだった。
 何だか、良い感じ。祥子さまに「祐巳」って呼ばれるの。
 状況は今ひとつ飲み込めていないのだけれど、ここは気分が良いのでもう少し祥子さまに付き合う事にした。こんな自分でも、何かお役に立てる事があるかも知れない。――そんな所だ。
「そうね。不快に感じられたとしたら、ごめんなさい。……えっと、福沢祐巳さん」
 白薔薇さまが首を傾げるように小さく曲げた。この人が、志摩子さんのお姉さま。志摩子さんとは全くタイプは違うエキゾチックな顔立ちをしているけれど、アップに耐えられる美人という点は変わらない。段を入れたセミロングが、耳の後ろに風のように流れて綺麗だった。
「でもね。私たちは紅薔薇のつぼみである祥子の行動に、どうしても注目してしまうの。わかって頂けるわね?」
「……は、はぁ」
 薔薇さまたちが祥子さまを気にしている事は理解出来るんだけれど。それがどうして自分をジロジロ眺める事に繋がるのかは、祐巳にはわからなかった。
「白薔薇さま。勝手に祐巳に話し掛けないで下さいな」
 祥子さまが庇うように祐巳の前に出た。
「あら、いつから祐巳さんはあなたの所有物になったの?」
 白薔薇さまは片眉を上げてクスリと笑った。揚げ足を取られた祥子さまが、美しいお顔のこめかみ辺りを引きつらせたのが、斜め後ろの祐巳からもはっきり見えた。
「まあ、白薔薇さま。まずは、祥子の話を聞いてあげましょうよ」
「そうですわ。報告があるって言ってましたもの」
 紅薔薇さまと黄薔薇さまに取りなされて冷静になったのか、祥子さまはピリピリしていた表情を戻して頷いた。
「先ほどのお約束を果たさせて頂きます」
「約束?」
 紅薔薇さまが聞き返した。
「今すぐ決めれば文句はないのでしょう? ですから私、この祐巳にします」
 祥子さまは、祐巳の肩を抱いてどうだとばかりに前面に押し出した。まるで、買ってもらったばかりのおもちゃをひけらかすように。
「あの……」
 問題の「さっきの話」の内容を知らない祐巳には、何の事だかさっぱりわからない。もしや、知らずにもの凄い事に巻き込まれてしまったのではないだろうか。
 蔦子さんや志摩子さんに目で助けを求めてみたものの、首を横に振られてしまった。彼女たちだって祐巳と一緒に来た訳だから、この事態を把握しきれる筈も無かった。
「それ、って? もしかしてドアを出る直前に叫いていた捨て台詞?」
 三人の薔薇さまたちは、探るように祥子さまを見た。
「もちろん」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、祥子さまはそのまま流暢に、その場にいた全員の度肝を抜くような言葉を発した。
 私は。今ここに福沢祐巳を妹とする事を宣言致します、と。





     2



「どうぞ」
 湯気の立ち上がる赤い液体が白いカップに七分目ほど注がれ、目の前に置かれた。
 これは、紅茶という飲み物だ。
「ミルクとお砂糖は?」
 背の低い、お下げ髪の少女が籠に入ったスティック状の物を差し出した。この子は確か、同じ一年生で。クラスと苗字はちょっと思い出せないけれど、黄薔薇のつぼみである支倉令さまの妹で、たしか由乃さん。
「いえ、結構です」
 断ってからぼんやりと考えた。えっと、ミルクって何だっけ?
 ああ、かなり混乱している。
 祥子さまの宣言を聞いて、一番驚いたのは、他ならぬ祐巳自身だった。ドッカーンっていう周囲の騒ぎにも乗り遅れて、ただその場で固まってしまった。いったい一日に何回、祥子さまに石にさせられたら済むのだろう。
 とにかく落ち着いて話をしようじゃないか。とそういう事になって、一同は会議中のプレートが掲げられた扉の中に場所を移動する事になった。
 勝手な宣言してくれた祥子さまは、仮初めにも「妹」と紹介した祐巳を置き去りに、肩をいからせて真っ先に部屋に入った。戦闘態勢、とでも表現するのが一番適当な感じだった。
(……祥子さまと、戦争)
 本来ならば、イメージ的に一番離れた位置にいてしかるべき組み合わせではなかろうか。
「まあ。妹を置いてきぼりにするなんて、しようがないお姉さまね」
 紅薔薇さまが祐巳の肩を抱いて部屋に入ると、祥子さまはやっと自分の不手際に気づいたようで、自分のすぐ横の椅子を引いて「ここにお座りなさい」と告げた。
 で、一同が着席した所で紅茶が配られた、と言う訳だった。
 その部屋は、校内にありながら学校のどの施設にもない雰囲気をもっていた。階段や廊下同様、床や壁は少々がたがきている板張り。廊下側を除く三方の壁にはそれそれ一つずつ木枠の出窓があって、掛けられた清潔なコットンのカーテンは開いて細いリボンで止められている。広さは教室の半分程であろうか、中央に配置された十二人掛けくらいの大きな楕円テーブルには生花が生けてあり、生徒会本部というよりも古い洋館のダイニングルームといった趣である。
 テーブルには紅・白・黄の薔薇さま方はもちろん、祥子さま、祐巳、志摩子さん、一緒にきた蔦子さんもゲストとして席を用意された。紅茶を入れて下さった由乃さんとそのお姉さまである令さまも、流し台に近い方のテーブルの端に並んで座った。
 水を足したばかりの電気ポットが、コポコポと音をたてている。放課後に生徒が学校で優雅に紅茶を飲む図なんて、今まで想像した事も無かった。いつの間にか、お皿の上に広げられた懐紙にはクッキーまで置いてある。
 山百合会の幹部になると、こんなに優遇されるものなのだろうか。
「断っておくけれど、私達は個人的な努力で快適な空間を作っているのだから、その辺は誤解の無いように」
 隣の祥子さまが、祐巳の心を読んだように呟いた。山百合会の予算にお茶代を計上している訳では無い、と言っているらしい。お茶はメンバーが持参してきたものだし、クッキーはたまたま調理実習のあったクラスからお裾分けがあったとか。
「ご希望ならコーヒーやココアもあるわよ。ただし専属給仕が不在だから、味は今ひとつだけど」
 紅薔薇さまがニッコリと笑った。
「だから、いつでも遊びにいらっしゃい。あなたは祥子の妹だという事だし、私達にとっても大切な仲間だわ」
 油断させておいて、さりげなく本題を振る。やはり薔薇さまと呼ばれるお人というのは、皆ただ者ではなさそうだ。
(そ、そうだ。肝心な話が済んでいなかったんだわ)
 祥子さまの爆弾発言を受けて、一同が顔を突き合わせていた訳で。
 忘れていた訳では無いけれど、忘れてしまいたいという気持ちは正直祐巳にはあった。身に覚えが何もない、それどころか追突事故の被害者である筈の自分が、何故このような席に座らされなければならないのか。これじゃ、何かの裁判か国会の証人喚問みたいだ。
「まあ、紅薔薇さま。祥子の主張をお認めになるの?」
「でも、黄薔薇さま。祥子が決めたのならば、もう私たちがどうこう言う次元ではありませんでしょう? 白薔薇さまのご意見はいかが?」
「認める認めないという結論は、もう少し先でないと出せないんじゃない? 少なくとも、主役の内のお一人が目を白黒している内は、ね」
 それと同時に、全員の視線が祐巳に注がれた。
(しゅ、主役の一人って、私のことー!?)
「かわいそうに。状況を把握出来て無いわよ、この子」
 薔薇さま達は、クスクスと笑う。もしや、いいようにからかわれているのでは無いだろうかと、祐巳は思い始めていた。
(そう、そうよ。きっとそうに違いない!)
 この豪華メンバーが、さっきの冗談を真に受けてしまうとも思えない。第一、祥子さまにどんな事情があるにせよ、祐巳を妹にするなんて設定、無理がありすぎたのだ。
(いや、待って)
 もしかしたら、祥子さまぐるみのゲームなのではないか。そうだ、そうに違いない! だったらすんなりと納得出来る。『ごめんなさいね、ちょっと冗談がきつかったかしら』――今そう言って微笑まれたら、『おかしいと思ったんですよね』なんて笑って、ギリギリ許せるかも知れない。
 しかし。
「誰が何と言おうと、祐巳は私の妹です」
 祥子さまは尚も主張を曲げない。一体、どういうつもりなのだろう。
「祥子だけじゃなく、祐巳さんにもお聞きしたいわね」
「わ、私ですか……!?」
 いきなり振られて、祐巳は怯んだ。お歴々に見抜かれている通り、状況が把握出来ていないのだ。正直に「知らない」と言えれば簡単だが、そうすれば祥子さまを窮地に追い込む結果になりそうだと、その場の雰囲気から察せられる。
「えっと――」
 出来れば、憧れの祥子さまの味方につきたい。でも敵の事も味方の事も知らない人間に、一体どうやって戦えというのだろう。兵法でおなじみの孫子先生に、ぜひとも教えて貰いたいものだ。
「私がそう言うのですから、間違いないでしょう? 祐巳に確認する必要はありません」
 強気だ。あくまで祥子さまは、強気の姿勢を崩さない。
「あ、あの……」
「あなたは黙っていらっしゃい」
 ピシャリ。味方である筈の祐巳にさえ、容赦ない。
 そりゃ、実際に姉妹の関係にあるのなら、お姉さまの命令は絶対であるから黙ってもいるけれど。本当は違う訳だから、もう少しやさしい言い方してくれても良いのでは無いだろうか。
「祐巳さん抜きで話を進めるつもりでしょうけれど、そうはいかないわよ」
 白薔薇さまの瞳が、キラリと光った。
「祥子。あなたは、自分に課せられた仕事から逃げ出したい一心で、通りすがりの祐巳さんを巻き込んでいるだけでしょう?」
(課せられた仕事……?)
 祐巳が首を傾げた時、離れた席の人物が「はい」と挙手をした。それは、もうすっかり祐巳からも存在を忘れられていた蔦子さんだった。
「何かしら、武嶋蔦子さん」
「お見知り置きとは、光栄です。白薔薇さま」
「祐巳さんはともかく、あなたの事を知らない生徒はいなくてよ。有名人ですもの」
 目立たない存在ですみません。――祐巳は心の中で呟いた。
「恐れ入ります」
 蔦子さんは眼鏡の位置を直してから、続けた。
「部外者と片づけられればそれまでなのですけれど、それでもこの場に同席をお許し頂けた者として一言よろしいでしょうか」
「もちろん?」
「私には、話が全然見えません」
 なぜ、突然祥子さまが祐巳を妹として紹介しなければならなかったのか。その事と、『課せられた仕事』というものがどこで繋がっているのか。蔦子さんはその説明を求めた。
「その通りね。説明なしでは失礼だわ」
 黄薔薇さまが頷くと、祥子さまが慌てて立ち上がった。
「説明なんて必要ないわ。私が妹を決めた、それだけの事なのだから。今日はもう解散」
「何勝手な事を言っているの。解散したけりゃ、一人で帰りなさい。もちろん、祐巳さんはここに置いていってね」
 紅薔薇さまの言葉に、祥子さまは仕方なく着席した。
「掻い摘んで説明するとね。祥子は一度は請け負った、学園祭関係の仕事を今日になって拒否して来た訳」
「だって、話が違うのだもの」
 祥子さまはプーと膨れたが、紅薔薇さまは構わず続けた。
「違わないわよ。それに、仮に説明が不十分だったとしても、あなたの仕事自体は変わらないじゃない」
「あの、……祥子さまの仕事って?」
 今度は祐巳が尋ねてみた。
「ああ、また説明不足ね。実は、今年の学園祭で我々は劇をやる事にした訳」
「山百合会の幹部が集まって、劇を」
 何だか、凄く贅沢な気がする。それは、是非とも観に行きたい。
「私たち四薔薇は、学園祭の実行委員も兼ねていて連日多忙。当然、つぼみたちが中心となって演じて貰う事になるわよね」
 エキストラとしてダンス部から人を借りる段取りになっているけれど、と黄薔薇さまが付け加えた。
「ダンス部って、一体何を上演されるのです?」
 蔦子さんが身を乗り出して尋ねた。カメラマンの血が騒ぐ、といった感じだ。
「シンデレラ。舞踏会シーンね」
 うわっ。
「そ、それで、主役は」
 自分の置かれている立場を忘れて、祐巳も興奮した。こちらは、隠れ祥子さまファンの血が騒ぐ、である。
「それは、もちろん祥子でしょう」
 きゃー。
 祥子さまの、シンデレラ。
 これは、何が何でも席を確保しなくちゃ。事前に整理券を配布したりするのだろうか。ついでだから、帰る前に子細を聞いてみよう。
 いや、待てよ。
 さっき、祥子さまは仕事を拒否していると言っていた気がする。だとしたら、主役を降りたいという意味で――。
「で、シンデレラであるからには王子様と踊る訳だけど、祥子はそれが不服らしいの」
「王子様?」
「えぇそうよ。いなければ始まらないでしょう? だって舞踏会は王子様のお嫁さま探しの場だもの」
 それはそうだ。シンデレラと言うとヒロインのインパクトが大きいが、元々は王子様のお嫁探しが物語りの骨なのだ。
「踊る事に反対しているんじゃありません。でも、何もお忙しい黒薔薇さま《ロサ・アトゥルム》をわざわざ王子にする事は無いじゃありませんか」
 祥子さまはぼそりと言った。
 祥子さまと黒薔薇さまの競演?
 想像しただけでお美しい、お似合い過ぎて嫉妬すら浮ばない程の組み合わせだ。
「黒薔薇さまが引き受けてくれたのだから、つぼみであるあなたがどうこう言う話じゃないわ。そうでなくって?」
「私が納得出来ないのは、今になって配役を替えると言う事です。学園祭まであと二週間だというのに」
 紅薔薇さまと祥子さまの論戦。一対一の姉妹対決だ。
「だから、王子は最初から黒薔薇さまに決まっていたの」
「嘘です。昨日の本読みまで、令が王子の台詞を言っていたではありませんか」
 するとそこで、
「あ、私ははじめから代役って聞いていたけど」
 電気ポットの蒸気越しに、令さまが手を挙げた。なんでも黒薔薇さまはお忙しくて暫らくは劇の方に専念出来ないらしくて、令さまが代役を務めていたのだとか。
「ほら、見てみなさい。祥子以外はみんな知っていたわよ。まだ疑うなら衣装を発注している手芸部に聞いてごらん。王子の衣装は、黒薔薇さまのサイズで作っている筈だから」
「私の居ないところでお決めになったのね」
 形勢が不利になってきた祥子さまは歯ぎしりをした。
「何寝ぼけているの、内緒で会議を開いたりしないわよ。……あ、でも、そうだったわ。祥子は何度か話し合いをサボった事があったわね。もしかしたらその時に、決まったのかも知れない。だとしたら自業自得じゃない? 黒薔薇さまが出席した打ち合わせがあった日は、決まって逃げ回っていたものね。男嫌いも程々にしないと、こんな目にあうのよ」
(男嫌い?)
 わかった。祐巳は心の中で、手をパチンと打った。
 話を総合すると、まず祥子さまは薔薇さま達に命じられ、舞台劇の主役を引き受けた。故意か不幸な伝達ミスかは定かではないが、黒薔薇さまが王子役に決まっている事が祥子さまだけに伝わっていなかったのだ。それを今日になって知らされた祥子さまは、烈火のごとく怒り、そして主役降板を宣言したと言う訳だ。理由は、――そう、男嫌いだから。
(しかし、男嫌いかぁ……)
 今まで考えた事も無かったけれど、そう考えてみると祥子さまに男嫌いという言葉はピッタリと嵌まり過ぎだった。祐巳のクラスにも男性恐怖症とか男嫌いとか自認している生徒がいて、彼女達と似たような雰囲気を持っている。反面、数少ない男子生徒達は居心地が悪そうだ。
(お父さんとかも苦手なのかなぁ……)
 そんな事をぼんやりと考えていた時、何やら視線を感じたので顔を上げると、白薔薇さまが顎を突き出して、目を細めて笑っていた。
「面白いね」
「は?」
「百面相していたわよ」
「えっ!?」
 祐巳は慌てて顔を押さえた。しかし、もう遅い。百面相は取り消せないし、追い打ちを掛けるように赤面の大波が顔全体を襲った。
「意外性があって、中々よろしい」
 それって。
 絶対、誉め言葉じゃない事だけは確かだ。国語の成績も平均点ですから、それぐらいは理解出来るんです、白薔薇さま。
「えー。しかし何故、祥子さまが主役に難色を示した事と、祐巳さんを妹にする事が繋がるのでしょうか。プレートには『会議中』とありましたが、それは主役交代の話し合いだったのですか?」
 蔦子さんはマイペースで質問を続けた。すると、黄薔薇さまが苦笑いして肩を竦めた。
「最初は、確かに会議だったのよね」
 学園祭の準備で、一部を除いて放課後は連日薔薇の館に詰めているという幹部メンバー。本日は幾つか持ち上がった細かい問題点を、まとめて話し合う予定であったという。
 日直で遅れるという志摩子さんや、所用で遅れると事前通達されていた黒薔薇兄妹を待たずに会議は始められた。志摩子さんや黒薔薇のつぼみは、つぼみであるので出席が義務づけられていない。純然たる欠席者と言うか遅刻者は黒薔薇さまだけだから問題無いらしい。
 若干解説させて頂くと、通常の学校では生徒会と呼ばれる山百合会。本来幹部と呼ばれる正式な役員メンバーは、紅薔薇・白薔薇・黄薔薇・黒薔薇の四人のみである。元々は黒を除いた三薔薇さまが生徒会長・副会長・書記・会計といった役職を同じ比重で受け持ち、代々運営されてきた訳だが、それも二年前の共学化するまでの話。共学化という事で男子学生にも山百合会に参加して貰おうと言う主旨の元、当時の薔薇さま達によって一人の男子学生が新たに黒薔薇さまとして山百合会に向かい入れられたのだ。当時中等部だった祐巳だが、何故か中等部にまで出回ってきたマリとらかわら版で伝聞していた。
 薔薇さまという呼称はもしかしたら、いつの時代か生徒会の役員を薔薇になぞらえたのが始まりだったかもしれない。たまごが先かニワトリが先か。とにかく山百合会の幹部といえば、今では紅白黄黒の四人の薔薇さま方を指す。
 しかし、生徒会をはじめ学園祭実行委員会、新入生歓迎会や卒業生送別会など季節ものの行事の主催、派手ではないが予算委員会や生徒総会など、細かいものまで含めればかなりの量となる薔薇さま達の仕事は、当然四人でこなせる訳が無い。そこで、見習いとでも言うのだろうか、薔薇さま達は自分の妹をアシスタントとして手伝わせている訳だ。番狂わせが無い限り、大抵はそのまま次代の山百合会幹部に持ち上がるので、薔薇さまの妹に限りつぼみという称号が与えられている。次に咲く薔薇として、皆に認められているのだ。
「議題の大半は簡単に決定するものだったから、スムーズに進んだのだけど」
「最後に回した我々の劇の打ち合わせ中に、祥子がごねたものでね」
「黙らせようとしてちょっと痛い所を突っついてみたら、爆発しちゃったの。祥子って外面が良いから人気があるんだけれど、気性が激しくて手が付けられないの」
 薔薇さま方は、淡々と語った。
「ちょっとですって!? あれは、ちょっと突っつくなんて代物ではありませんでしたわ! ずしりと、私の心臓にめり込みました」
 祥子さまは思い出したのか再び興奮した。
「妹一人作れない人間に発言権は無い、って仰ったわ!」
「確かに言ったわ。でも、だからと言って『誰でも良いから妹にしろ』という意味では無いわよ。部屋から出て一番始めに出会った一年生を捕まえて妹にするなんて、何て短絡的なの? 藁しべ長者じゃあるまいし」
(……藁しべ長者)
 祐巳のこめかみに、たらりと汗が伝った。
(すると、私は藁しべだった訳か)
 お陰さまで話は随分見えてきたけれど、それとともに馬鹿馬鹿しくもなってきた。
「藁しべ長者、結構じゃないですか。あれは、確かラストはめでたしめでたしでしたわよね?」
 祥子さま、滅茶苦茶言っている。
「じゃあ、あなたは祐巳さんを別の誰かに交換するまでのつなぎにする気だったの? そんな関係、認める訳にはいかないわ。あなたの姉である私の品位まで疑われてしまうもの」
 紅薔薇さまは、呆れたように溜息をついた。しかし祥子さまは、お姉さまを真っ直ぐ見据えて反論した。
「祐巳の事はずっと面倒みます。私が教育して、立派な紅薔薇にしてみせます。だったら問題無いのでしょう?」
 いくら成り行きとは言え、そんな大風呂敷広げて良いのだろうか。これでは、いずれ撤回する時に大恥をかく羽目になってしまう。
「思いつきで言うのはおやめなさい、祥子」
「なぜ思いつきだとおっしゃるの」
「あなた、祐巳さんとは今さっき出会ったばかりじゃない。それなのに、どうしてそんな約束出来るの」
 バチバチと、目に見えない火花が散る。
 だが、三対一。おまけに三の方は、マリとら学園高等部最強の女三銃士である。
「本当はさっきまで、祐巳さんの名前すら知らなかったんじゃないの?」
「それは……」
 祥子さまの声のトーンが落ちた。そこを突くように、白薔薇さまが優しく追い打ちをかける。
「もう、良いんじゃない? 片意地張るの、やめなさい」
 その通りだ、と祐巳は思った。ここは潔く負けを認めた方が良いんじゃないかな。シンデレラが嫌だったら、別の方法で解決すれば良いじゃない。妹なんか衝動買いするものじゃないよ。よく考えて、もっと自分に合った相手を見つければ良い。
 そりゃ。
 祥子さまが、別の一年生を妹にしたら、それはそれでショックだろうけれど。祥子さまが自分の事を妹だと言ってくれた事は、たとえ出任せであっても嬉かったけど。
「待って下さい」
 その時、志摩子さんがすっと立ち上がった。
「祥子さまと祐巳さんは、今さっき初めて会ったのでは無いと思うのですが」
 それまでは、いない者のように気配が消えていた。黄薔薇のつぼみやその妹も同様で、つぼみとは本来必要時以外ではあまり出しゃばらない存在でなければならないのかも知れない。何故か唯一祥子さまだけが例外のようだ。
「なぜそう思うの?」
 白薔薇さまが、自らの妹に聞きただした。
「だって祐巳さんは、祥子さまを訪ねてここにいらしたんですもの」
「え? 志摩子が連れて来たんでしょう?」
 紅薔薇さまは、祐巳と蔦子さん。志摩子さんを結ぶ三角形に視線を動かした。
「確かに。祐巳さん達がどうしてここにいるのか、聞くのを失念していたみたいね」
 志摩子さんが個人的な友人を連れて来たとか、学園祭の雑務を手伝ってくれる有志の生徒とか、どこかの部活が体育館の使用を巡って不都合を言いに来たのではないかとか。皆、勝手に思い込んでいたらしい。まあ、祥子さまのヒステリーとか衝突事故とか姉妹宣言などが次々と重なって、この場が混乱していたから仕方がない事ではある。
「それは、本当なの?」
 紅薔薇さまが、祥子さまではなく祐巳に直接聞いた。
「……はい」
 消え入りそうな声を振り絞って、祐巳は答えた。悪い事はしていないのに、やはりこういうシチュエーションはちょっと苦手だ。子供の頃、姉弟喧嘩の後でお母さんに言い分を聞かれた、あの時の切ない感じにちょっと似ている。
「証拠もあります」
 蔦子さんがここぞとばかりに割って入って、紅薔薇さまに何かを手渡した。
(あ、今朝の写真……!)
 チラッとだけ見えたあれは、間違いなく二人のツーショット写真だった。
 それにしても。そろそろ決着がつきそうだったのに、クラスメイトたちは何を思ってかまたもや問題をまぜこぜにしてくれた。
「なるほど。二人は以前から知り合いだったわけね。それは失礼したわ」
 スナップはぐるりと回覧され、祐巳の隣の祥子さまの手元にも巡ってきた。はからずも、その写真の存在は祥子さまの知る所となった訳だ。
 どんな反応をされるのだろう、と祐巳は横目で祥子さまの表情を窺った。
 祥子さまは写真を手にすると、まず小さく首を傾げ、そのままゆっくりと祐巳の方に顔を向けた。
 眉間にしわをよせている。でも「不快」というのとも、ちょっと違う。
(これは――、このつかみ所のない表情は――)
 祥子さまは、他には聞こえないほどの小声で呟かれた。
「どこで会ったかしら」
 やっぱり。
 彼女は、完全に忘れていたのだ。
 今朝というかなり近い過去であるにも関わらず、記憶に残っていないという事は、祐巳の印象があまりに薄かったという事だろうか。それとも祥子さまにとって、記憶にとどめておくほどの価値もない出来事だったのだろうか。
 どちらにしても、ガッカリである。顔を覚えられていないのならば、汚名返上なんて考える必要はまるっきりなかったのだ。
 しかし、それを踏まえて考えれば、祥子さまの行動は大胆以外の何ものでもない。少なくとも彼女の中では、初対面の一年生を捕まえて姉妹宣言していた訳だから。
 藁しべ長者と言われて怒るのは、筋違いであろう。
「ご覧になっておわかりとは思いますが、私と祐巳とは、この写真にあるようなごく親しい間柄ですの」
 おっと。
 小道具を味方につけた祥子さま。ヒステリー返上で、理論的に攻める作戦に出る気と見た。
 復活が早いなぁ。「どこで会ったかしら」の舌の根を乾かす早さといったら、ガス乾燥機並みである。
 祥子さまは尚も続ける。
「それに。他人が選んだ妹を、どうこう言われるのは筋違いじゃありません事?」
 あくまで、祐巳を妹であるという嘘をつき通す気らしい。
 いや、そうじゃない。祥子さまはきっと、口から出任せを真実にすり替えてしまうつもりでいるのだ。よくはわからないけれど、シンデレラを降りる為の手段として。
「そうね。たとえその場しのぎの思いつきだったとしても、あなたが積極的に選んだ妹に異議を唱えたり、ましてや二人を引き裂く権利は我々には無いわ。まずあなたは、一生徒としてこの学園に存在している訳だし」
 そうは言っても、間違った方向に行きかけたのなら、多少口出しするべきではないだろうか。――祐巳はそう思った。
 何と言っても、祥子さまは紅薔薇のつぼみである訳で、半年後には紅薔薇さまとなられるお方。そのお方が、何のセールスポイントも無い、ごくフツーの平凡な生徒を、一時的だとしても妹になんかしてしまったら、どんな騒ぎになる事か、試してみなくてもわかりそうなものである。
 それだったら、かえって蔦子さんの方が意外性があって良いと思う。それにしても、何だってあの時祥子さまにぶつかられたのは自分でなければならなかったのだろうか。
「良いわ、認めましょう」
 やがて紅薔薇さまがそう言うと、祥子さまはぱあっと表情を明るくした。たったそれだけの事で、周辺の空気までもがキラキラと輝くようだ。そう、ちょうどシンデレラが魔法をかけられるシーンのように。
「ただし――」
 紅薔薇さまは微笑して告げた。
「シンデレラの降板までも認めたわけではないわよ。その辺、忘れないでね」
「約束は!?」
 祥子さまは、カップをひっくり返しかねない迫力で、テーブルを叩いた。魔法のとけたシンデレラ。
「約束?」
 ふふん、と紅薔薇さまは鼻で笑った。
「それはあなたが勝手にわめいていただけでしょ? 妹のいない人間に発言権はない、とは確かに言った。だから、今後はご自由にどうぞ発言してちょうだい」
「じゃあ、役を降ろして下さい」
「駄目」
「何故です」
「男嫌いは、『役を降りざるを得ないほど重大な理由』にはなり得ないわ。あなたの場合、男性を見ただけでじんましんが出るとか、吐き気をもよおすとかじゃないでしょう? ただ『嫌』というのを一々認めてなんていたら、世の中は回っていかないの。そういうの、我儘って言うの。それくらいの事、次期紅薔薇のあなたなら十分理解出来る事だと思っていたけど?」
 そう言ってから紅薔薇さまは、自らの手を頬にあて、わざとらしく大きなため息をおつきになった。
「私の指導不足という事になるのでしょうね。でも、そんな基本的な事がわからなかったなんて、思わなかったから」
 お気の毒に。祥子さまは言い返す事が出来ないようだった。
 こうやって、代々の薔薇さま方はお強くなっていかれるのかもしれない。何か、凄まじい楽屋裏を見てしまったような気分になった。
「帰ります」
 祥子さまはすっくと椅子を立ち上がった。
「待って」
 紅薔薇さまは座ったままで、自ら打ちのめした妹を見上げて言った。
「一つ確認させて。祐巳さんは祥子の何?」
「え?」
「今でもあなたは、祐巳さんを妹だと思っているのかしら」
 シンデレラを降板する為の材料にはならなかったけれど、それでも妹と言い張る気か。紅薔薇さまは、そう聞いているのだろう。
「もちろん――」
 前言撤回します、どう考えても祥子さまはそう言う筈だった。
 何故って。祐巳を妹にするっていうのは、祥子さまがシンデレラを降板したいが為にうった大芝居だった訳で。その目論見が外れた今、名前も知らず顔も覚えていなかった祐巳を妹にしておく理由は何もなかった。
 だが。
「もちろん、祐巳は私の妹ですわ」
 祥子さまは、予想外の言葉を言ってのけた。祐巳はギョッとして、畏れ多い事であるが、祥子さまの顔をマジマジと見た。
 さっきまで興奮していたし、混乱もしただろうから、日本語の使い方間違えたのではないだろうか。本当は「妹ではありません」と言いたかったのではないか。
「お姉さま、私を侮辱なさる気? それではまるで、利用する為にだけに祐巳を妹にしたみたいじゃないですか」
 おいおい、違ったのか? しかし、やっぱり相手は祥子さま。突っ込みたい衝動を、祐巳はぐっと堪えた。
 誰か、代わりに何か言ってくれないものか。
「結構」
 紅薔薇さまは満足そうに頷いた。
「ここで祐巳さんを捨てるようなら、私もあなたと姉妹の縁を切らなければならない所だったわ」
 事が、どうしてこんなに大げさにならなくてはならないのだろう。
 今朝、起きた時には何の予感もなかった。家の玄関を出た時も、校門をくぐった時も、いつもと何も変わっていなかった。
 ただ、セーラーのタイが曲がっていた。そんな些細な事がきっかけで、こんな事に巻き込まれて。現在、渦中の人となっている。
 渦中の人にしては、どこか外野にいるようなんだけど。
「もうロザリオはあげたの?」
「まだです。ご希望ならば皆さま方の前で、儀式をしても構いませんけれど?」
「それも良いわね」
 ちょっと待って。
 みんな、祥子さまを止めなくて良いの? このままだったら、私みたいなフツーの女の子が紅薔薇のつぼみの妹になってしまうんだよ? 冷めたお茶を、微笑して優雅に飲んで「それも良いわね」はないんじゃないの?
「どうしたの? この子、何か言いたげ」
 白薔薇さまが、祐巳に気がついた。
「今ここで儀式を行う事に、何か不満でもあるのかしら」
「まさか。ロザリオを貰って正式な姉妹になれるのに、不満に思う生徒がいて?」
 方程式の話でもしているように、黄薔薇さまが呟く。
「でもほら、二人きりの方が良いとか」
「案外ロマンチストなのね」
 そういう事じゃない。そういう事じゃないんだけれど――。しかし薔薇さま方の会話に割り込むタイミングが掴めず、祐巳はただおろおろするばかりだった。
 祐巳がおろおろしている間に祥子さまが何をしていたかというと、早くも胸元のポケットからロザリオを取り出していた。
(正気!?)
 それを下級生の首に掛けたらもう、「今の無し」とは言えなくなっちゃう。大げさかもしれないけれど、ロザリオの授受は婚姻届と同じなのだ。
 それとも、正気じゃないのは自分の方だったのだろうか。これは夢で、ロザリオが掛けられた瞬間目覚し時計が鳴る、というありきたりなパターンの。
(でも、夢に痛覚ってある?)
 廊下でお尻を打った時、確かに痛かった。試しに今自分の手の甲を抓ってみたけれど、やっぱりそれなりに痛い。
「動かないで、祐巳」
 祥子さまが命じる。手にしたロザリオは既に、掛けやすいように大きく輪になって祐巳の頭上にスタンバイされていた。
 これが首に掛かったら、憧れの祥子さまの妹になる。
 棚からぼた餅。ヒョウタンから独楽。
 いや、それを言うなら駒だ。そうだよね、独楽が出たくらいじゃ驚かない。駒が出たから「まさか」な訳で。でも、駒って馬の事だけじゃなくて双六や将棋に遣う駒の事も指すし、それなら逆に独楽よりはありえる大きさじゃないだろうか?
 ああ、今はそんな事を考えている時じゃない。考えるべき事は、ただ一つ。
 これで良いの?
 このまま妹になってしまって、本当に良いの?
「あ、あのっ……」
「お待ちになって!」
 祐巳と同時に志摩子さんが叫んだ。
「祥子さまも他のお姉さま方も、皆さま大切な事をお忘れになっていませんか」
「大切な事、って?」
「祐巳さんのお気持ちです」
「祐巳さんのお気持ち、ですって?」
 薔薇さま方は鼻で笑った。
「この子が、ロザリオを受け取らないとでも思って?」
「そうは申しません。けれど一応、お気持ちを聞くのが筋というものですわ」
 志摩子さんは、毅然とした態度で言い切った。大人しそうな外見からは信じられない程、堂々と自分の意見を言う。さすがは白薔薇のつぼみという所か。同じ一年生なのだろうか、と疑いたくなるほどのしっかり者。
 取りあえず儀式は中断したので、志摩子さんには感謝である。
「なるほど。例え紅薔薇のつぼみからの申し出であろうと、志摩子のように『ごめんなさい』してしまう人がいないとも限らないわね」
 紅薔薇さまは、志摩子さんに軽く牽制球を投げた。やっぱりあの噂は本当だったらしい。
「でも、祐巳さんは祥子さまの信奉者よ。断るわけないわよ?」
 蔦子さんが隣の志摩子さんに、雑談のように言った。
「私も、そう思う。この子……祐巳さんをちょっと観察していたら、祥子のファンだってすぐにわかったもの」
 白薔薇さまが頷いた。そうか、百面相を見られたのは、観察されていたからだったのか。
 だとしたら、もしや祥子さまにも瞬時に感知されていたのかもしれない。だからこそ、祐巳をここまで巻き込むのに躊躇なかったとか。
 すぐ側の祥子さまは、成り行きなんか全然気にならないといった感じで、ロザリオを手の平の上で転がしていた。きっと、絶対に祐巳が断る筈は無い、という揺るぎない自信があるのだろう。
「でも、万が一という事もあるから、一応聞いてみましょうか?」
 紅薔薇さまは祐巳に向き合って尋ねた。
「祥子があなたを妹にしたいそうだけれど。あなたは、ロザリオを受け取る気持ちはあって?」
 そうストレートに聞かれると。次の言葉が見つからなかった。
 祥子さまの妹になるという事は、ハリウッドの映画スターと結婚するくらい途方もない夢物語であって。叶わない夢であるから、勝手に空想を広げて楽しんだりも出来る訳で。
 今、その夢への直行便のチケットが目の前にちらつかされている。
 イエスと言わない方が嘘だ。
 けれど、やっぱり「こんなので良いの?」と心のどこかで言っている。
 黙り込んだ祐巳に、一同の注目が集まっていた。祐巳は意を決して言った。
「申し訳ありません。私、やっぱり祥子さまの妹にはなれません」
 小さなざわめきが起きた。
「面白くなってきた」
 白薔薇さまが無責任に笑い、紅薔薇さまは目を瞬かせ、黄薔薇さまは口をOの字に開けたまま固まってしまった。
「どうして、って聞く権利くらい、私にはあるわよね」
 祥子さまは、こめかみをピクピクと震わせて言った。
「確かに私、祥子さまのファンでしたけれど」
「どうしたの? 本性を見て嫌いになった?」
 紅薔薇さまが間に割って入って、祐巳に尋ねた。
「そうじゃなくて」
 勝手に想像していた祥子さまとは確かに少し違っていたけれど、拗ねたり怒ったりする人間的な所が見られて嬉しかった。だから理由は、祥子さまの性格が嫌とかそんな風に言い切れない部分にある。
「うまく説明出来ないんですが。ファンだからって、必ずしも妹になりたいかって言うと、そうじゃないんじゃないかと………」
「ふうん」
「ファンだからこそ、ファンなりのプライドとかあるわけで」
「当然しっぽを振って付いて来る、なんて思われるのは心外だ、と」
「ちょっと違うと思いますが……」
 気持ちを言葉に変換する作業は、とても難しい事だと思った。
「どっちにしろ、祥子はまたもや振られたというわけ」
「かわいそうな祥子。番狂わせの二連敗」
「今年の一年生、やってくれるわね」
 薔薇さま方は、祥子さまを取り囲んで口々に言った。慰めているというより、面白がっているように見える。
「かわいそう、とおっしゃるのなら。シンデレラの一件をどうにかして頂けない?」
 祥子さまは無理に笑顔を作って言った。
「おや。同情されるの嫌いな祥子が泣き言を言っている」
「珍しいわね」
「どうにかって、どうしたら良いの?」
 わかっているくせに。
 一歩下がって全体を見渡せば、不思議に人々の様子が見えてくるものだ。祥子さまは、薔薇さま方のおもちゃと化している。
「私か黒薔薇さまか、どちらか役から降ろして下さい」
「何言っているの。祐巳さんに振られたからって、どうしてあなたに同情してあげなくちゃならないの」
 確かに、そんな理屈は成り立たない。だけど、このまま無理矢理男の人とダンスを踊らせるのも気の毒に思えてきた。
 男の人と共演したくないから、祐巳を妹に仕立て上げようとまでしたのに。
「あ、あのっ」
 思わず、祐巳は叫んでいた。
「あなた、まだいらしたの?」
 振られた気まずさか、祥子さまはツンとすまして憎まれ口を言った。隣にいるんだから、帰ったかどうかくらいわかっているだろうに、可愛くないんだから。
「あの。黒薔薇さまにお願いして、今回は遠慮して頂く訳にはいかないのでしょうか」
「なあに、あなた。今頃祥子をフォローしようというの?」
 紅薔薇さまは顎のラインで切りそろえた髪を、愉快そうに揺らした。
「フォローとか、そういうのとは違います」
 言いながら、祐巳自身が驚いた。紅薔薇さまに向かって、意見している。
 何だろう。いつもの自分じゃないみたい。
「黒薔薇さまの役は正式に決定してしまっているから無理」
「じゃあ、せめて祥子さまの役を替えて差しあげたらどうなのでしょう」
「役を替える?」
「例えば志摩子さんの役と交換するとか。志摩子さんなら、祥子さまに負けず劣らず綺麗なんだし。おまけに白薔薇のつぼみなんだし」
 名指しされた志摩子さんが、「何いうつもり」と言うように祐巳を見た。心の中で「ごめん」と手を合わせる。例えば、なんだけれど、やっぱりまずかったかな。
「一年生の志摩子に、主役を?」
「一年とか二年とか、この際関係無いのではないでしょうか」
「それもそうね」
 もう一押しだ、と思った。紅薔薇さまは、少し考えるように天井を見つめた。
「もともとの連絡ミスだって、祥子さまだけに責任があるようにおっしゃいましたけれど。皆さんにだって――」
 そこまで言いかけた時。
「お黙りなさい!」
 真横の祥子さまが、突然叫んだ。
「それ以上言ったら、私が許しません」
「祥子さま……」
 いつものヒステリーではなくて、もっと重みのある言葉だった。
「私の為に言ってくれている事くらい、わかっていてよ。でも、私の為なら、それ以上お姉さま方を非難しないで」
 祥子さまはそっと祐巳の肩に触れると、回れ右をして薔薇さま方に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。後で、ちゃんと言い聞かせますので」
 触れられた肩が、切なかった。祥子さまを助けようとしたのに、もしかして空回りな事をしてしまったのだろうか。
「確かにね」
 白薔薇さまがぼそりと言った。
「祐巳さんの言おうとした事も間違っていない。今日になって祥子が知ったという事であるなら、やっぱり私達にも責任の一端はある。役の事、もう一度考えてあげたらどうかな?」
 他の薔薇さま方は、すぐさま異論を唱えた。理由はどうあれ、衣装やポスターの発注も済み。じきに立ち稽古も始まるという今になって、配役交代は厳しいというのが主な意見であった。
「でも、このまま無理矢理男子生徒とダンスさせるの、どうかと思うのよ。祥子の為にも、私達の為にも」
「なるほど。後輩に納得出来ない事を強要させるような人間に、生徒会を引っ張っていく事が出来るか、って事ね。おまけにこの『シンデレラ』は山百合会の看板背負って上演する訳だし」
「でも、今更変更するの、厳しいわね」
 紅薔薇さまや黄薔薇さまの呟きに、白薔薇さまは「そうでもないわよ」と答えた。
「要は、祥子に納得してシンデレラをやって貰えば良いわけ」
「王子役は替えられないのに?」
「そう。キャストは替えないで」
 祥子さまの方を向いて、白薔薇さまは提案をした。
「一つ賭けをしましょう」
「賭け?」
「頭ごなしにシンデレラをやれ、っていうんじゃフェアじゃない。だから祥子にもチャンスを与えて、納得して罰ゲームを受けて貰おうっていうわけ」
 なるほど。
 しかし気になるのは、はじめから祥子さまが負ける事を確信しているような口振りだという事。
 白薔薇さまは紅薔薇さま黄薔薇さまに耳打ちして、すでに賛同を得ているようだ。その事も、祥子さまの劣勢を裏付けているように感じられた。
「私が勝ったら?」
 しかし祥子さまは、構わず尋ねた。
「今度こそ約束するわ。シンデレラを降りて良い」
「わかりました。その賭け、乗りましょう」
「ちょっと祥子さま! 内容も聞かずに、返事しちゃって良いんですか!?」
 余計なお節介かもしれないけれど、つい祐巳は口を出してしまった。
「構わないわ。負けたって、現状維持なんだから」
 祥子さまって、見かけによらずギャンブラー。潔癖性だからって、賭け事に嫌悪感もったりはしないらしい。
「じゃあ、祐巳さんのリクエストに答えて賭けの内容を発表するわね」
 含み笑いをしてから、白薔薇さまは簡潔に述べた。
「祥子が祐巳さんを妹に出来るか否か。もちろん祥子には『出来る』の方に賭けて貰うわ」
「えっ!?」
 一番驚いたのは、もちろん祐巳である。
(もう、私の話は済んでいるんじゃなかったのー!?)
「一度は断られたあなた。学園祭前日までにロザリオを受け取らせるのは至難の業よ? それが出来たのなら、その時点でシンデレラを降りて良い事にしましょう。その代わり、それまでは主役としてちゃんと練習に参加するのよ」
「なるほど。黒薔薇さまと手を繋ぎたくなければ、一日でも早く祐巳を落としなさい、というわけですわね?」
「その通り。我々は何も手を出さないわ。勝敗はあなたの努力次第。条件的にも悪くは無いんじゃないかしら?」
「やりがいがある事」
 祥子さまは勝ち気に微笑んだ。
「そうそう。一つ言っておくけど」
 白薔薇さまはクルリと祐巳に向き直って告げた。
「祥子の味方をしようとして、その気がないのにロザリオ受け取ったりしないでね。あなたがOKしてシンデレラの役に穴が空いたら、その場所にあなたが入るんですからね」
「えっ。どうして私が!?」
「何言っているの、ロザリオを受け取った時点であなたは祥子の妹。お姉さまが空けた穴をふさぐのは、当たり前でしょ?」
 そんな、馬鹿な。
「わ、私なんかに、祥子さまの代わりは無理です! それだけは、もう絶対に!」
「大丈夫。決してロザリオを受け取らない、それさえ守れば祥子の負けが決定するんだから」
 それに祐巳さんに決まるならそれもそれで面白いから良い、などと恐ろしい事を紅薔薇さまなどは言ってくれる。
「そ、それじゃあ、薔薇さま方と祥子さまの賭けというより、祥子さまと私の勝負になるのでは――」
「そうとも言えるわね。……ま、悔やむなら、祥子を助けたいなんて仏心を一瞬でも出した自分を悔やみなさい」
 黄薔薇さまの言い放った『仏心』は、ちょっとマリとら学園には浮いているような気がした。
「それで、これは何の騒ぎなんだ?」
「祐巳!?」
 でも、こうして救いの手が差し伸べられたのだから、毎朝マリア様にお祈りしていて良かった。
 二つの救いの声は、忘れさられたビスケット扉の方から聴こえて来た。





     3



「まったく」
 ご自分でお入れになられた紅茶に口を付けながら、黒薔薇さまが呟いた。
「なんでこう君達は、物事を面白おかしくしようとするんだ? いつものメンバーならともかく、そうでない祐巳さんを巻き込むと言うのは感心しない」
 何故か祐麒を連れて薔薇の館に来られた黒薔薇さまは、紅薔薇さまに状況を説明させながら、それが約束だからとお茶を入れようとした志摩子さんや由乃さんを座らせて、自ら人数分の紅茶をお入れになられた。その様子はまるでプロかと見紛う程に洗練されていて、思わず見惚れてしまった。同じ茶葉を使った筈なのに、香りは先程より芳醇でありながら色は先程より澄んでいて、申し訳無いけれど由乃さんに入れて頂いた紅茶よりかも数段美味しかった。
 紅薔薇さまの説明を聞き終えた黒薔薇さまが感想を口にされた訳だが、その説明に祐巳は首を傾げていた。
(祥子さまがシンデレラを嫌がる理由が説明されていないのは何故?)
「そもそも、賭けを持ち出した白薔薇さまやそれを面白がるであろう黄薔薇さまはともかく、紅薔薇さま、祥子さんの姉である君までがそれに荷担するのはどういう了見だ?」
 祥子さまが男嫌いだから………という理由を説明されていない黒薔薇さまは、理由がわからないから納得出来ないと三薔薇さまを問い詰めていた。
 その緊迫した様子に目を奪われていた祐巳は、制服の裾を引っ張る手の存在に中々気がつかなかった。「祐巳さん、祐巳さん」と小さく声まで掛けられて気付いたその手の主は、黒薔薇さまの妹にして黒薔薇のつぼみこと、蟹名静さまだった。
「お兄さまには祥子さんの男嫌いは秘密なの。申し訳無いけれど口裏を合わせて頂けるかしら?」
 成る程。確かにそれは黒薔薇さまには言えないよな、と思いながら祐巳は他のメンバーの顔を見渡す。令さまや志摩子さん、由乃さんと言った山百合会メンバーは黒薔薇さまの詰問を沈痛な面持ちで受け止めている。黒薔薇さまは他の薔薇さま方を相手にしている筈なのに、皆一様に怒られているように見えるのは何故だろうかと新たな疑問を覚えながら、他の人に救いを求める。蔦子さんは祐巳より一足先に静さまから耳打ちされたらしく、祐巳の視線を受け止めて頷いてくれた。
 残る一人、祐巳同様招かれざる客である筈の祐麒は………逆に祐巳に助けを求めるような視線を送っていた。福沢姉弟は小市民。薔薇さま方の対立と言う重大事態に、どうして良いかわからないのだ。
「祐巳さん?」
 静かさまに問い掛けられ、やっと祐巳は自分の果たすべき役割を思い出した。ブンブンと音がしそうなぐらいに頭を縦に振り、賛同の意を伝えようとしたが、その様はあまりにオーバーアクションだったようで黒薔薇さまの気を引いてしまった。
「あぁ、お客さまの存在を忘失してしまっていたようだ。申し訳無い。祐麒くんとは先程挨拶したから………福沢祐巳さんに武嶋蔦子さんでよろしかったかな? 初めまして、黒薔薇を務めています三年松組の高町恭也です」
「は、はい、ごきげんよう、黒薔薇さま」
「ご、ご、ご、ごきげんよう」
 黒薔薇さまは、薔薇さま方を相手になさっていた時とは打って変わって柔らかく微笑んで挨拶してくれて、ドギマギした祐巳はきちんと挨拶出来なかった。蔦子さんも同様のようで、挨拶しようとしたが声が出ないといった模様だ。
「ごきげんよう。妹の静はもう挨拶しましたか?」
「挨拶しようとしたらお兄さまがお邪魔なさったのよ。ねっ?」
 そんな事実は無いと言うか、そもそも自己紹介して下さらなくてもこっちは一方的に知っていると言うか、とまた百面相しそうになると、静さまが目で合図を下さった。ここでも口裏を合わせろと言う事だと理解して、祐巳は慌てて大きく返事する。
「は、はい、黒薔薇のつぼみ」
「えぇ、よろしくね。ところで福沢祐巳さん、一つお聞きしてよろしいかしら? こちらにいらっしゃる福沢祐麒さんとは、ご兄弟という事でよろしいのかしら?」
「え、あ、はい。と言っても双子と言う訳じゃなくて、年子の同学年で私が姉なんですが ………あれ、そう言えば祐麒は何でここにいるの?」
 祐麒は、今頃聞くかと呆れた表情を見せた後で口を開いた。
「黒薔薇さま方に連れて来られたんだよ」
「なに、黒薔薇さま方と知り合いだったの?」
「まさか。こっちは顔と名前を知っていたけど、逆は無いよ」
「じゃあ何で?」
「いや、何でと言われても、その、なんて言うか………」
「私とお兄さまがお願いして来て頂いたのよ」
 場も弁えずに姉弟漫才を繰り広げていると、静さまが助け舟を出してくれた。状況を認識して、姉弟揃って赤面。
「ちょっとしたお詫びと出会いに感謝して、という所かしら。学園付近で一番美味しいお茶が飲める所って、実は薔薇の館なのよね」
 それは納得と言うか、こんなに美味しい紅茶は専門店でもなければ飲めないと思う。祥子さまのピアノや静さまの歌のように、やはり薔薇の館の住人ともなるとプロ顔負けの特技の一つ二つがあるのだろう。
「普段は無口で無愛想で堅苦しいお兄さまだけど、飲み物を淹れるのだけは得意なのよね。飲食物に対するのと同じぐらい、私や勉学にも気を使って下さると嬉しいのだけど………」
「ふむ、では次からは静の分だけは出涸らしで済ます事にしよう」
「ウソウソ、冗談ですわ、お兄さま。ほら、お客さま方が困惑しておられますわよ?」
 妹にそう指摘され、仏頂面を傍目にも苦労して笑顔に変えながら黒薔薇さまは福沢姉弟と蔦子さんに向き直った。
「お見苦しい所をお見せしたね。どうもうちの妹はすぐに人をからかうと言う悪癖があってね。なぁ、祐麒くん?」
「え、はい。……あ、いや、その」
「あら、そんな事は無いわよね?」
 黒薔薇さまと黒薔薇のつぼみの板挟み。場を和ませて親愛を深める為にわざと祐麒に絡んでいるように見えるが、相手がこの二人とあっては祐麒に同情する。スターに絡まれた素人に、どう行動する事が許されるのだろうか。同情はするが助け舟は出さない。この場で助け舟を出す事は、自滅を意味するのだと学習したばかりだ………
「おやおや、黒薔薇兄妹は福沢弟くんがお気に召したようだね。いっそ静の弟に迎えてはどう?」
「面白いわね、それ。薔薇のつぼみのプティ・スール同士が兄妹なんて、初めてだもの」
 それは名案とばかりに、黄薔薇さまが祐麒に詰め寄る。
「どう、お姉さんと一緒に山百合会に入らない? 部活は何かしていて?」
「いえ、その、帰宅部ですが……」
「じゃあ問題は無いわね。あとは静の気持ち次第かしら」
 そう言って白薔薇さまが静さまに悪戯っぽく目線を送る。この話題の火付け役は、祐巳と祥子さまの賭けの件といい性質が悪い。小市民な福沢姉弟をからかうのはそんなに楽しいのだろうか―――見る限りでは心底楽しそうではあるが。
「少しばかり気が早すぎるのではありませんか、白薔薇さま? 勿論、未来は誰にも解りませんが……」
「おやおや、取り様によってはどうとでも取れる発言だね。どう思う、黄薔薇さま?」
「私は賛成よ。反対する理由がないもの。ねえ、紅薔薇さま?」
「そうね。でも………そうなると祐麒さんは大変ね。静ちゃんは将来有望な歌手の卵で、早ければ今年中にも留学するかもしれない訳でしょ?」
 えっ?
 黒薔薇のつぼみが留学?
 寝耳に水どころか、予想だにしない会話が繰り広げられている。祥子さま以外の山百合会情報にはトンと疎い祐巳にすれば、そんなに凄い人だったんだと驚くばかりである。
「からかうのもそれ位にして下さいな、薔薇さま方。そもそも、私なんてまだまだですわ」
「ご謙遜ね。中等部の時からそう言う話はあった訳でしょ? ならいつ本決まりになってもおかしく無いわ」
「確かに。………となると静の抜けた穴を祐麒くんがカバーして黒薔薇さまになる訳だ。二年で薔薇さまか、そりゃ大変だ」
 黒薔薇のつぼみの反論を白薔薇さまが切って捨て、「ねぇ」と薔薇さま方は上品に首を傾げて頷き合う。それを言うなら一年生で既に白薔薇のつぼみである志摩子さんはどうなのだと突っ込みたかったが自粛する。薮蛇以外の何者でも無い事位は祐巳にも理解出来たから。
 トントン拍子に会話は弾み、福沢姉弟を始めとして三薔薇さまと黒薔薇のつぼみ以外は蚊帳の外だ。周りを見渡すと、まず同じ様に周りを見渡していたらしき祐麒と目が合う。互いに苦笑し合って視線を外すと、苦虫を噛み潰したかのような顔をした祥子さまが目に入った。
 ………違う、この顔は苦い顔じゃない。酷い痛みに黙々と耐え、周りに心配を掛けないように必至で歯を食いしばっている顔だ。でも、だったら何がそんなにお辛いのだろうか?
 今の会話?
 ―――多分違う。じゃあ、………と考えて祐巳は「あっ」と声を上げそうになった。
 最初からだ。
 祥子さまは、黒薔薇さまが入室されてからと言うものずっと顔を顰めていらっしゃる。
 何故って決まっている。祥子さまは男嫌いだから。
「………でもまあ、プティ・スールの失態をグラン・スールがカバーするのと同じに、グラン・スールが空けた穴を塞ぐのはプティ・スールの務めですものね」
「そうそう。そうやってうちの学園は代々伝統を紡いで来たんだから」
「あら、伝統嫌いの白薔薇さまとも思えない発言ですこと」
「失礼な。―――あぁでも、プティ・スール獲得にグラン・スールのご威光を担ぎ出すような伝統なら確かに嫌いかな」
「まぁ白薔薇さま。一体どなたの事を指していらっしゃるのかしら?」」
 気が付けば華やかな薔薇さま方の会話は、険呑な刺を含んだ寒々しいものに変わっている。相も変わらずにこやかな笑みと華麗な背景を背負っているのが、余計に怖い。
 正に一触即発という雰囲気が流れ、つぼみ達が薔薇さま方を止めようと口を開き掛けたその時。
「まいった」
 何の脈絡も無く、黒薔薇さまが発言された。
 そしてその一言で、場の雰囲気ががらっと変わってしまった。
 あれほど危うげな会話を交わされていた三薔薇さま方はしてやったりとばかりに満面の笑みを浮べられ、黒薔薇のつぼみは降参(?)された黒薔薇さまを慰めるように肩に手を乗せられた。
 残る人達は数秒してからようやく事態の推移についていけたようで、祐麒さえが「あぁ、そう言う事」と言う感じで頷いている。
 祐巳一人がえっ? えっ? と目を白黒させていると、蔦子さんが目で合図をくれた。意訳すると、また後で。
「―――確かに、それがマリとら学園の伝統であり、ルールだ。そしてその基盤となるスールの契りは当事者同士が結ぶものであり、スールの間のやり取りに口を出すのは無粋と言うものか」
 黒薔薇さまは説明するかのような口調で話されるが、何が言いたいのかさっぱり解らない。でも皆さんは解っていらっしゃるようで、薔薇の館の空気は数段軽いものになっている。自分一人が蚊帳の外にいるのは大変気分がよろしく無いが、祥子さまの顔を強張りが大分和らいだのだから事態は良い方向に進んだのだろう。
 そうやって無理やり納得させると気付いた。祐巳にとっては何も変わっていない………どうしようと途方にくれそうになるが、当然の様にそんな状況ではなかった。
「祐巳さんには申し訳無いが、自分の力では如何ともし難いようだ。面目無い」
 祐巳のほうを向いた黒薔薇さまが、わざわざ席を立って頭を下げたのだ。
「い、いえ、その、あの………あ、頭を上げてください黒薔薇さま」
 慌てて立ち上がってはみたものの、口を付くのはそんな言葉で頭の中はまたまたパニック。ほんと百面相だと、埒も無い思いが脳裏をよぎる。
「ただ、どうしても駄目だとか、どうしようもなく困った事が起きたら自分に相談して下さい。その時こそお力にならせて頂きますから」
 そんな優しい言葉を掛けてくれた黒薔薇さまは「もっとも祥子さんの事だからそんな事は無いでしょうが」と微笑みながら続けた。
 その笑顔はやっぱり素敵で、祥子さまがそっぽを向いたのが判っていながらもドギマギせずにはいられなかった。
 結局、わかりましたと無難な答えを返すのが誠意一杯の祐巳だった。
「祐巳さんも了解してくれた事だし、今日はもう解散しよう。祐巳さんに祐麒くん、蔦子さんにはすまない事をしたね。すっかり遅くなってしまった。本当にすまない」
 そう言って黒薔薇さまはまた頭を下げる。
 そんなに頭を下げられると、逆に此方が恐縮してしまうと言う発想は無いのだろう。
 祐巳だけでなく、祐麒や蔦子さんも慌てて席を立って返礼する。
 収拾の付かない頭の下げ合いに終止符を打ったのは白薔薇さまで、今後の方針を決めたのは紅薔薇さま。黄薔薇三姉妹に背を押されて、後片付けがあるという薔薇ファミリーを残して部外者三人はビスケット扉をくぐって階段を下りたのだった。





     4



「つまりね」
 薔薇の館を後にしながら、蔦子さんが約束通り説明してくれた。
「賭けと言うのはただの名目であって、実際はマリとら学園の学風に沿ったものに過ぎないって事なのよ」
 でもその説明は、国語が平均点の祐巳には少しばかり難解だった。
 そんな祐巳の心の声を聞いたのか、蔦子さんは追加で説明してくれる。
「薔薇さま方も言っていたでしょ? 姉の空けた穴を塞ぐのは妹の役目だって。この場合、姉は祥子さまで妹候補は祐巳さんとキャストは固定されているけど、そう言う事なのよ」
 だからどう言う事なの?
「祥子さまがシンデレラ役を辞退したがっている理由を説明せずに賭けを黒薔薇さまに納得させる事は非常に難しいと言うか、まず出来ない。なら理由を説明するのでは無くて、賭けとそれによる推移の正当性を認めさせれば理由云々の話はうやむやのままで済ませられるって訳ね」
 と言う事は、薔薇さま方はそんな計算を各々がした上で何の相談も無く黒薔薇さまを納得させる為の芝居と言うか遣り取りをしたわけだ。
「……………凄い」
「だよな」
 祐巳が感嘆して呟くと、それを聞きつけた祐麒が更に続けた。
「恐れ入るよ、黒薔薇のつぼみには」
「えっ?! ――なんでそこで黒薔薇のつぼみが出てくるの?」
 だって会話をしていたのは薔薇さま方で、黒薔薇のつぼみは最初と途中に合いの手を入れただけ………まさか!?
「そう言う事。あの場の会話を仕組んだと言うか誘導したのは黒薔薇のつぼみ。勿論、それを理解して会話を紡いだ薔薇さま方にも頭は下がるけどね」
「黒薔薇さまの意識が三薔薇さまに向かっている間に私達に対して祥子さまが男嫌いだと言うのを黙っているように働き掛けたりもしているわね」 
 顔に出たのだろう。何も言わないのに祐麒と蔦子さんが二人掛りで補足してくれた。勿論、後者は前者に聞こえ無い様に耳打ちで。
 じゃあ、黒薔薇さまがまいったって言ったのは。
「妹に対しての敗北宣言。器が大きいよ」
「ほんと、かっこいいわ」
 全くの同感。やっぱり、山百合会幹部って凄い!!


     *


 三人を送り出して部屋を手早く片付けた所で、祥子さんは紅薔薇さまに何か耳打ちされて一足先に部屋を出た。其処には色々な思惑が見て取れたけど、つぼみやその妹が片づけするのを他所にお兄さまを初めとする薔薇さま方が密談していたのは絶対に無関係じゃない。
 それを証拠に、祥子さんが出て行くと残る面々が集められたのだ。
「さて、ここからの話はここにいるメンバーだけでの話。絶対に他の人間、特に福沢姉弟や祥子さんには知られないようにして欲しい」
 全員が頷くのを確認して、お兄さまが話を始める。
「先程も言ったように、白薔薇さまが提案した賭けを認める。………ただし、祐巳さんが心底嫌がるようならば即刻賭けは中止だ。それとその場合には状況に合わせて一番良い対処をする必要があるから………賭けの発起人として君達にはシンデレラの役をいつでもやれる準備をして置いて貰おうか」
 そう言ってお兄さまは、紅白黄の三薔薇さまに条件を突き付けた。これは三薔薇さま方にとっても寝耳に水らしくブーイングが起こったが(主に白と黄のお二方から)、お兄さまは意に介さず話を続けた。
「そもそも労せず楽しもうなど虫が良すぎる。賭けというものは成立しなくなった時点で胴元が責任を持つものだし、脚本を書いたのも君達、それぐらい軽いものだろう? それに何より、プティ・スールを助けるのはグラン・スールの役目だものな?」
 広義の意味でのスール制、つまり先輩が後輩を導くと言う伝統を揶揄しているのだろう。これには流石の三薔薇さま方も為す術が無いらしく、諦めたように賛同した。
 令さんと志摩子さんがすかさず自分のお姉さま方を慰めに(と言うか落ち着かせにだろうか?)掛かり、由乃さんはお兄さまを尊敬の眼差しで見詰めている。
 そんなお兄さまを誇らしく見詰めていると、お兄さまの反撃は静にまで及んだのだ。
「あぁ、それと祐巳さんが嫌がっているかどうかの判断だが、祐巳さん本人から俺への申告と言う事でも良いのだが、それだけだと受動的で万が一の場合に弱い。そこで彼女に一番身近な弟の祐麒くんにも協力をお願いしようと思う」
 静はこの時点で非常に嫌な予感がしたのだ。
 何故なら、お兄さまの目が一瞬静を見て光ったように見えたから。
 そして何より、静はお兄さまの妹なのだから。
「と言う訳で静、この中で一番祐麒くんと親しいお前がそれをお願いし、連絡を取り合え。―――なんなら、それを機にスールの契りを結んでも構わんぞ。祐麒くんが孫なら、自分も異存は無いからな」
 これは、明らかに先程の遣り取りの仕返しだろう。
 静のお兄さまは、こう言う仕返しが何より得意なのだから。それこそ、皆には内緒にしている剣術よりも。
 それにまあ、正直な話そろそろプティ・スールを作らないといけないとは静も思ってはいたのだ。静は黒薔薇のつぼみであり、何より留学の話も全くの事実無根ではない訳で………
 祐麒さんを選ぶかどうかはともかくとして、行動しなければならないのは事実。
 なら楽しもう、と静は思う。
 祥子さんや祐巳さんには悪いけど、これから学園祭までの間はあの二人に学園中の眼が集まる事だろう。それはつまり、他には注意がいき難いと言う事で………
 静は、本人もそうと知らない間に、炭酸飲料を飲み干した後のような爽快な顔をしていた。


     *


「………それにしても」
 銀杏並木を歩きながら、蔦子さんがつぶやいた。
「どうして、すぐにOKしなかったのよ。祐巳さんが妹になれば、祥子さまとの交渉もしやすかったのに」
 秋の日は釣瓶落としで、祐巳・祐麒・蔦子さんの部外者三人組が薔薇の館から解放された時には、すでに黄昏と呼ばれる時間帯になっていた。
「じゃあ蔦子さんは、あの場で私じゃなくて写真の心配していたわけ?」
「当たり前でしょう。私を誰だと思っているの」
 写真部のエース、武嶋蔦子さんでしたっけ。
 ………あれ? それにしては、
「黒薔薇さまがいらっしゃってからは、随分大人しかったわよね?」
「………」
 そう、それが気に掛かっていたのだ。黒薔薇さまがご登場なさってからというもの、薔薇の館は正に黒薔薇ファミリーの独壇場。アレほど威勢果敢だった祥子さまでさえ隠し事があるからか鳴りをひそめ、福沢兄弟の漫才なんて、その前座のそのまた前座、開幕を告げる拍子木みたいなものだった。
 写真部のエースも、黒薔薇さまの魅力の前には形無しな訳だ。
「……でも、面白くなってきたわね」
 気を取り直したかのように蔦子さんは白薔薇さまと同じような事を言って笑った。
「他人事だと思って」
「他人事だから気楽なの。そうか、祐巳さんもとうとう年貢の納め時かな。貴重な姉妹なしの仲間が一人減るのは惜しいけれど、ま、相手が祥子さまじゃ、落ちるの時間の問題かな? どうせなら、『何日目』まで細かく指定したら面白かったのに。ねえ、祐麒さん?」
「えっ? ………ま、まあ、そうですね」
 先程から一人黙々と歩を進めて少し先を歩いていた祐麒は、急に降られた話題に付いて行けずにお茶を濁す。
「あら? 弟さんとしては、お姉さんにお姉さまが出来るのは複雑なのかしら? それとも、黒薔薇のつぼみの事でも懸想されてらして?」
「いや、そういう訳では………」
 苦笑しながら祐麒は否定し、そうなの、とばかりに表情で問い掛ける祐巳にそんな訳あるかとこれまた顔の形で答える。まるで何かのゲームみたい。
「でもまあ、確かに何日目まで持つんですかね」
「私は一週間ぐらいと見るけど、祐麒さんは?」
 右に同じと答え、祐麒と蔦子さんは苦笑いして肩を竦めあう。
「二人とも、祥子さまが勝つと思っているの?」
「だって、祐巳さんの方がエネルギーなさそうじゃない」
「勝てる気でいるのか?」
「……」
 実は、自分でもそう思っていたりしたのだ。いざ真っ正面から攻められれば、そのパワーに押されて、思わず首を縦に振ってしまいそうな予感がした。
「でも。シンデレラがかかっているんだから、負けるわけにはいかないわ」
 握り拳を振り上げる祐巳に、蔦子さんは「その言い方だと、やりたいみたいに聞こえるよ」とボソリと訂正してくれた。祐麒はやっぱり呆れ顔だ。
 マリア像の所まで来ると、三人は立ち止まって手を合わせた。これは習慣。登校と下校の度に一度ずつ。それ以外でも、この像の前を通りかかったら必ず挨拶をする。
(マリア様、今日は大変な一日でした。できましたら私に、速やかに平穏な日々をお返し下さい)
 目を開けて身体の向きを変えると、その時。
「お待ちなさい」
 背後から声が聞こえた。
 まるでデジャブ。朝と同じ、マリア様ではないかと思える凛とした声。何故か祐麒は反射的に背筋を伸ばして直立不動。
「祥子さま……」
 走ってきたのか、少し肩で息をしながら、祥子さまは祐巳の背後約十メートルの所に立っていた。
「覚えていらっしゃい。必ずあなたの姉になってみせるから」
 異臭をはなつ銀杏の実が落ち始めた中にあっても、背筋を伸ばして宣言する祥子さまの姿はそれは格好よかった。
「ごきげんよう。三人とも気をつけてお帰りなさい」
 言いたい事だけ言うと、ニッコリと微笑んで、祥子さまは颯爽と去っていった。
「何か、格好いいね」
 後ろ姿を見送りながら、蔦子さんが呟いた。
 祐巳もその時、自分の心がグラリと揺れた事が確かにわかった。



いやー、面白いな〜。
一体、どうなるんだろうか。
美姫 「本当に次回が待ち遠しいわね」
ああ。早く次が読みたいよ。
美姫 「祐巳も祐麒もどうなるのかしらね」
うんうん。次回も非常に楽しみに待ってますね。
美姫 「待ってます〜」
ではでは。



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