『マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜』




私立マリとら学園………。

明治34年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のために作られたという、伝統ある学校だった。

しかし近年、高等部からは男子生徒の入学も認められ、より一層活気が溢れた。

最大の特徴はスール(姉妹・兄弟)制である。

上級生が下級生に姉妹の契りの儀式を行い、ロザリオを授受するといったシステムである。

姉(兄)になった先輩は妹(弟)の指導を行うのである。

これは、共学化と言う流れにあえて乗った上村佐織学園長の英断若しくは道断の果ての物語である。





マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜


A spiral encounter



    波乱万丈な火曜日  Episode A 「Interior」



     1



 古今東西、噂の伝わるのは早いもので。
 昼休みまでにはマリとら学園の全生徒が、祐巳が祥子さまを振ったという事実を知っていた。
「蔦子さん、言った?」
「まさか。こういうのは、参加するより離れて見ていた方が断然面白いもの」
 すると、一癖も二癖もある薔薇さま方が積極的に流したのだろうか。
 あの場での出来事を内緒にしようという言い交わしなどは無かったから、噂を流した人間を掴まえて苦情を言うのは筋違いなのだろう。けれど、それでも平凡な一生徒の平和な学園生活に支障が生じるのであれば、文句の一つも言って良いのではないか? 初日から早速黒薔薇さまに相談したくなった祐巳である。
 最初に違和感を感じたのは授業中。クラスメイト達の視線をチラホラと感じたのだ。視線は確かに感じるのに、祐巳と目が合うと「まさかね」という感じで目を逸らして直接は何も言って来ない。これが一人や二人なら気付かなかったかも知れないが、クラスの大半が同じ行動を取れば流石の祐巳でも気付くという物だ。
 挙句の果てには、桂さんから次のような結び文が回って来た。
『何か変な噂が流れているみたいだけれど、あんまり気にしたら駄目よ』
 身近にいるクラスメイト達は実物の祐巳を知っているだけに、噂と現実のギャップの大きさに混乱し、結局は根も葉もない噂だろうと判断して落ち着くパターンらしい。
 しかし、福沢祐巳と言う人間を、今日まで知らなかった者の反響は凄かった。
 あの祥子さまが、あの藤堂志摩子の後に目を付けた程の人材が、未だ手付かずのまま残っていたとは―――。噂は勝手に一人歩きし、謎の美少女を一目見ようと、休み時間の度に一年桃組の前には見物人が指数関数的に増えて行った。
「誰が噂の美少女か教えて貰わなきゃわからないのが、幸福であり不幸でもあるわね」
 四時間目が終って教科書を片付けていると、背後から蔦子さんがボソリと言った。
「確かにね。気持ちは複雑だけど」
 祐巳は力無く笑った。蔦子さんが言うように、祐巳は平凡を絵に描いたような生徒だったから、何もしなくても目立つ志摩子さんのような存在を期待して見に来た見物人には、それと指さされなければ本人である事は気付かれないのだった。
 クラスメイト達もこれまでのところは気を利かせてくれて、「祐巳さんは今いないわよ」とガードしてくれている。だから先程の休み時間の際は、見物人の前を堂々と通ってお手洗いにも行って来られた。
「じゃあ、私から一つアドバイス。昼休みは教室にいない方が良いわよ」
 蔦子さんは和やかな笑顔を浮かべて傍からは他愛も無い雑談をしているように見せると、小声で素早く耳打ちした。
「どうして?」
「新聞部が祐巳さんを取材しに来るという情報をキャッチしたから。うちの新聞部はしつこいわよ? ワイドショーの芸能レポーター並みの人材がゴロゴロいるし」
「ふぇ……」
 さーっと血の気が引いていった。芸能レポーターっていったら、「結婚するんですか」とか「不倫したんですか」とか言って突撃取材するあの凄い人達でしょ? 祥子さまのパワーも凄かったけれど、新聞部っていうのも勘弁して欲しい。
「わかった? じゃあ、はい、お弁当持って」
 蔦子さんは机の脇に掛かっていた手提げ袋からお弁当包みを出すと、祐巳に持たせて背中を押した。
「あれ、祐巳さんどこに行くの?」
 いつもは一緒にお弁当を食べる桂さんが、不思議そうに尋ねた。
「ごめん、ちょっと祐巳さん借りるわね」
 祐巳の代わりに蔦子さんが答えた。おまけにその手には既に自分のお弁当箱を持っていて、「早く早く」と急かす。早くしないと新聞部が来てしまう、そんな感じだった。
「わっ」
 しかし、ちょうど廊下に出た所で、いかにも「新聞部」という生徒三人と鉢合わせした。
「………遅かったか」
 蔦子さんの無念そうな呟きは、祐巳の耳にだけ届いた。
 デジタルカメラ、ボイスレコーダー、メモ帳……。先ほどの「芸能レポーター」とは喩えであって、もちろんハンドマイクや担ぐタイプのテレビカメラなど持参していない。でも、最近のデジタルカメラは音声付の動画も撮れるって前に祐麒が言っていたし………
「あら、ごきげんよう。あなたもこちらのクラスだったの?」
 先頭の一人が蔦子さんを見つけて声を掛けてきた。新聞部と写真部。何かと関わりがあるのだろう。
「ごきげんよう、新聞部の皆さま。今日はいかがなさいまして?」
 本当は全部承知しているくせに、蔦子さんは友好的な笑みで迎えた。こういう所は、ちょっと羨ましい。
「福沢祐巳さんのインタビューに参りましたの。ちょうど良かったわ、呼んで下さる?」
「えーっと。祐巳さん、祐巳さんは……っと」
 すっ惚けた蔦子さんは、すぐ隣にいる福沢祐巳さんには目もくれず、扉の向こう側、今出てきた一年桃組の教室をぐるりと見渡した。
 教室の中は、お昼の準備真っ最中。机をくっつけ合ってテーブルクロスを広げたり、ミルクやパンの係が注文の品を配ったり。そこに別のクラスの生徒も加わっていたりするから、かなりゴチャゴチャしている。マリとら学園のいつもの昼の光景だ。
「あ、あそこにいるの、祐巳さんかしら?」
 蔦子さんは(祐巳から見れば)わざとらしく眼鏡をずらす仕草をして、一番奥の席辺りを指さした。
「呼んで参りますわ。どうぞお待ちになって」
 いったいどうするつもりなんだろう、と祐巳が訝しんでいると、教室に戻りかけた蔦子さんは「そうそう」と言って振り返った。
「ノグチさんはお急ぎでしたわね? どうぞお先にいらっしゃって」
「は? ……あ、はい」
 わざわざ祐巳の目を見て、その上小さくウインクまでしてくれたのだから、蔦子さんの言ったノグチさんというのは多分自分の事だろう。
「では、お先に」
 祐巳は蔦子さんと新聞部の生徒達に小さく会釈して、その場を足早に去った。廊下を歩きながら、ノグチ→野口英世→福沢諭吉→福沢祐巳という図式を思いつき、なるほど、と手を打った。共通点はお札。昨日も思った事だけど、祐巳と蔦子さんでは頭の回転に雲泥の差があるみたい。何年か前ならナツメさんと呼ばれたのだろう。
 それにしても、この後蔦子さんはどうするつもりだろう。彼女の事だから「人違いでした」とでも言って、うまく切り抜けるのだろうけど、まったく、離れて見ていた方が面白いとか言いながら、結構面倒見が良いじゃないか。
 蔦子さんもいなくなってしまった事だし、さて、どこに行こう。そう思って階段をブラブラ下りていると、どこからか声がする。
「祐巳さん。こっち」
 手摺りから下を見ると、白い手がひらひらと手招きしている。もっと身を乗り出してみると、そこには志摩子さんの綺麗な顔がちょこんと現れた。
「一緒にお昼、食べましょう」
 その天使のような微笑みになぜかホッとして、祐巳はリズミカルに階段を下りて付いて行く事となった。


     *


 志摩子さんは、彼女の指定席に祐巳を招待してくれた。
「こんな所で、毎日お弁当を食べているの?」
 そこは講堂の裏手。銀杏の中に一本だけ桜の木が混ざって生えている、目立たない場所だった。そこにお弁当包みを広げて二人は座った。
「季節限定よ。春と秋の天気の良い日だけ」
「夏は?」
「この桜の木にね、毛虫がわくからちょっと嫌ね。でもあと少ししたらギンナンがたくさん落ちるから、それは楽しみ」
 塗りの四角いお弁当箱から里芋を摘みながら、志摩子さんはうっとりと銀杏の木を見上げた。西洋人形を思わせる容姿と、少々アンバランス。ギンナンの話題も、渋いお弁当箱も、ついでに言えば美味しそうな里芋入りの筑前煮も。
「……変わっているね、志摩子さんて」
「そう? でもギンナンって、踏んでグチャグチャにならなければ、それほど臭わないわよ? だからみんなが通る銀杏並木は、悲惨なの」
「志摩子さん、もしかしてその潰れていないギンナンを持って帰るの?」
「あたり!」
 志摩子さんは、幸せそうにふふふと笑った。
「ギンナンなんて好きなの?」
「祐巳さんは嫌いなの?」
 逆に質問されて、ふーんと思った。あんな物、好んで食べる人がいたんだ。
 お刺身の盛り合わせについているシソの葉っぱみたいに、茶碗蒸しのお飾りかと今日まで思っていたけど。
「ギンナンとかユリネとか大豆とか、そういうの大好きなの。十代の娘らしくないって両親から良く言われるけれど、嗜好なんて環境がかなり影響していると思わない? あの両親に育てられたから、好みが渋いのよ、きっと」
 聞けば、志摩子さんの家は純和風建築で洋間というものが無いらしい。イメージで言うと、どう考えても白亜の豪邸に白いグランドピアノなんだけれど。お弁当だって、クラブサンドとかフライドチキンとかの方が絶対に似合う。
「見かけによらない?」
 志摩子さんは祐巳の顔を覗き込んで尋ねた。
「うん、ちょっとね。でも、意外で面白い」
 正直な感想を述べると、志摩子さんは「祐巳さんも同じよ」と笑った。
「本当に。お近づきになれて、良かったわ」
 二人は一緒に空を見上げた。
 澄んだ空に、雲がゆっくりと流れて行く。
 空色に雲の白、その下には黄葉した銀杏の葉が太陽の光を透かして金色に輝いている。もし自分が画家だったら、この光景を大きなキャンバスに描き写せるのに。詩人だったら詩に、音楽家だったら曲にして、きっと残すに違いない。
「志摩子さんは、どうして祥子さまの申し出を断ったの?」
 ふと、思って尋ねてみた。すると志摩子さんは「その質問は、私があなたにするのではなくて?」と笑って伸びをした。
「そうか、二人とも同じ事をしたんだ」
 だからと言って、ますます親近感が湧くというものでも無かった。志摩子さんと祐巳では、祥子さまへの向かい合い方がまるで違っていた気がしたから。
「私の場合はね」
 少し考えるように、志摩子さんは遠くの空を見つめて言った。
「私では祥子さまは駄目だと思ったの。逆に、私にも祥子さまでは駄目なのよ、きっと」
「どういう風に?」
「祥子さまの事は好きだけれど、私達は相手に求めるものが違うの。だから、与えられるものも違うわ」
「………難し過ぎてわからない」
「祥子さまにも言われたわ。言いたい事はわかったけれど、具体的じゃないって。私自身だって、漠然とそう感じただけだからそれは仕方ないわね」
 相手に与えられるものと、相手に求めるもの。一対一の人間関係だから、それが合致する事は重要な事かも知れないけれど―――。
「志摩子さんでも駄目なら、祥子さまと釣り合う相手なんていないんじゃない?」
「それはどうかしら。もちろん、簡単には見つからないから、今まで妹をお持ちになられなかったでしょうけれど。それに紅薔薇さまは祥子さまとちゃんと向き合っているでしょう? 相性ってあるのよ」
「そうか……」
 だったら志摩子さんは白薔薇さまとの相性がピッタリだったのだろう、と祐巳は思った。二股を掛けた訳では無く、自分も相手もきちんと見つめた結果の選択だったのだ。
「そろそろ戻りましょうか」
 志摩子さんが立ち上がった。あと五分もすれば五時間目が始まる。
「新聞部の人達だって、授業があるんだから大丈夫よ」
 先ほどの話に従って、落ちているギンナンを踏まないように歩いた。
 これまで地面なんてじっくり見て歩かなかったから知らなかったけれど、よく見ると転がっているギンナンって熟した梅に似ていた。
「祥子さまね。私の時より祐巳さんに断られた時の方が、ショックが大きかったと思う」
「どうして」
「私の時は、何となく予感があったと思うの。祥子さまだって、私を妹と仮定してみた事があったでしょうから、しっくりとはまらない事くらいわかっていたのよ」
 でも祐巳の場合、絶対の自信があったと言うのだ。
「そんなにショックは受けていないみたいだったけど?」
「あの方、負けず嫌いの天邪鬼だから。本当に悔しい時には澄ましているのよ」
 すでに人気の無くなった階段を、二人は並んで歩いて行った。チャイムとともに教室に入る几帳面な老教師を会釈して追い抜き、教室の前まで着いた時には始業一分前だった。
 新聞部の生徒達や他のクラスの生徒達も、志摩子さんが言ったように、すでに廊下からは消えていた。
 後方の扉を開けながら、志摩子さんが言い残した。
「もしかしたら、祐巳さんは祥子さまと合うかもしれないわね」
 先に教室に入って行ったクラスメイトの後ろ姿を眺めながら、祐巳は「なーに言ってんだか」と呟いた。
 負けず嫌いとか天邪鬼とか、そこまで祥子さまを理解している志摩子さんが駄目で、どうして祐巳が合うというのだ。
 まったく、志摩子さんたら変わり者なんだから。





     2



「祐巳さん。そろそろおしまいにしましょう」
 同じ音楽室掃除のクラスメイトが、窓を閉めながら言った。
「ええ……」
 いつもだったら、祐巳は掃除が終り次第さっさと帰る。けれど今日はぐずぐずしていた。
「掃除日誌をまだ書き終わっていないから、皆さんお先にいらして」
 今校舎を出たら、帰宅部の下校ピークにぶつかる。多少バスが混むのは構わないのだが、噂の人となってしまった今日、マリとら学園の生徒達が乗客の殆んどを占めるバスの中に自ら進んで飛び込む勇気は祐巳には無い。かといって時間を潰すような場所にも、心当たりは無かったのだが―――
「でしたら、終わるまでお付き合いしますわ。祐巳さんお一人を残して行けませんもの」
 親切なクラスメイト達は、口々にそう言ってくれた。
「でもクラブ活動がおありでしょう? 私はこの後は帰るだけですし、昨日も日誌を届けて頂いたので、今日は私が持って行きます」
 祐巳がそう言うと、他の三人は「じゃあそうして頂く?」と相談し合って、音楽室を後にした。
「ごきげんよう」
「また、明日」
 口々に挨拶を述べて、パタパタと早足で、三つの足音は去っていった。
 プリーツは乱さないで、セーラーカラーは翻さないで。そんな嗜みを忘れてしまう程、本当はみんな忙しかったのだ。
「あーあ、退屈」
 クラブにも委員会にも所属していないと、この時期は少し寂しくなる。
 クラスの出し物は、実直なマリとらの生徒らしくすでに夏休み明けにはその準備が殆んど出来てしまっていた。学園祭が近くなればクラブ活動や委員会などで忙しくなり、クラスの事まで手が回らなくなるであろうと予想した人達の提案によるものだ。祐麒の菊組もそうだと言っていたから、どのクラスでも似たようなものだろう。
「どれくらい時間潰したら良いのかな?」
 あまり遅くなり過ぎると、クラブ活動が終った生徒達とかち合う可能性が出てくる。それはそれで物凄く間抜けだ。
「そうだ。日誌も届けなきゃならなかったんだ」
 でも、まだ動こうという気分にはならなかった。半開きになった扉の向こう側からは、教室やクラブハウス、体育館などへ移動する生徒達のはしゃぎ声が聞こえてきた。
 祐巳は何とはなしにピアノの蓋を開けた。音楽室に一人でいても、別に怖いことなどない。ただ、学園を包む喧騒から取り残されているようで少し寂しくはあった。
 ミ――
 右手の人差し指で、高いミのキーを鳴らしてみた。うん、確かこの音から始まったんだと思う。祐巳は椅子を引き、ちゃんと鍵盤と向かい合った。
 ピアノに触るのは久しぶり。小学部に通っていた六年間、週一回ピアノ教室に通っていたけれど、あまり身にならなくて中等部入学と同時にやめたのだ。
 ミ―――
 もう一度、同じ音を出してみる。そうして今度は記憶と音感を頼りに、半年ほど前に聞いたあの曲を再現してみる。右手の人差し指一本だったら、メロディくらいどうにかなる。
 ファ―――
 ソ――レミ――
 これはグノーのアヴェ・マリア。
 半年前、山百合会主催の一年生歓迎式で演奏された曲。新入生の為にと、紅薔薇のつぼみと紹介された二年生の小笠原祥子さまがオルガンを弾き、黒薔薇のつぼみと紹介された同じく二年生の蟹名静さまが唄ってくれた。オルガン独特の響きと素晴らしい歌声が、お聖堂と言う事もあってそれはそれは厳かに響き渡り、心の中に染み渡った。
 思えば、祥子さまを意識したのはあの時が最初だった。オルガンを弾いている祥子さまがアヴェ・マリアの曲そのもののように気高く感じられて、舞台中央で高らかに歌い上げる静さまではなく祥子さまに惹かれたのだ。
 演奏が終わっても、祐巳はずっと祥子さまの姿を目で追っていた。美しい容姿だけで無く、所作の一つ一つに品格があり、そして少しだけきつい口調が上級生らしくて、素敵だった。
 あんな人になりたい。
 あの人に少しでも近づきたい。
 そう願った半年前のあの時は、まさかこんな事態に展開するなんて予測出来なかった。ううん、昨日の今頃だって、それは同じ事だった。
 学園人生が変わっちゃったな。――そう思ってピアノにこつんと凭れると、視界の左端に何かが映った。
「☆×■◎※△――――!?」
 それが何であるかわかる以前に、言葉で表現出来ない奇声が祐巳の声帯から飛び出していた。
 なぜって、自分の背後から人の手がぬっと伸びて鍵盤に触れようとしていたのだから。心臓が飛び出しそうになるのも、仕方無いと思う。
「何て声出しているの。まるで私が襲っているみたいじゃない」
 その手の所有者の顔を見て、祐巳は再び飛び上がった。
「お、音もなく背後から現れれば、誰だって悲鳴ぐらいあげますよ、祥子さまっ!!」
 その上、今の今まで頭の中で思い描いていた憧れの人であれば、尚の事。
「ピアノ演奏の邪魔したらいけない、という配慮からよ」
 祥子さまはそのまま伸ばした左手の小指で、ト音記号のドの音を出した。ピアノを習い始めて最初に右手の親指が押さえるキーだ。
「弾いて」
「えっ!?」
「もう一度。さっきの通り弾いてみて」
「ええっ?」
 慌てて椅子を下りようとすると、祥子さまは空いている右手で祐巳の肩を押さえた。
「リズムは……一、二、三、四、二、二、三、四」
「あ、あの……」
 祥子さまは、メトロノームのように規則正しく祐巳の右肩にリズムを刻み、三のカウントの後に「はい」と出だしの合図をした。
 人間、「はい」と言われれば、何かを開始してしまう習性があるらしい。祐巳も弾みでミの音を出していた。
 するとそれに合わせるように、別の音が重なった。
 ドミソドドミソド
 何と、祥子さまが左手の部分を弾いていたのだ。おまけにペダルまで踏んでいるから、音にエコーが掛かっていた。
(連弾だぁ)
 自分の指が押さえた音が、別の音と綺麗に重なり合い、耳に気持ちよく戻ってくる。
 けれど、ワクワクしたのは束の間だった。すぐに祥子さまの存在を意識してしまい、ワクワクがドキドキに変わってしまった。
 元々連弾用に作曲されたものではない上に、祐巳の右手と祥子さまの左手で演奏しているものだから、一人分のスペースに二人が身を寄せ合っているという事になる。祥子さまの胸が祐巳の左腕に触れてしまったり、艶やかなストレートヘアが祐巳の肩にパサリと落ちたり、何だか良い匂いがしてきたりは当たり前のようにしてしまう。
 それでも演奏は続いている。多分、祐巳が右手のメロディラインを弾き続けられるうちは、祥子さまもやめはしないだろう。
 いつまでもこうしていたいと願う反面、早く終ってしまえと思っている自分。祐巳の中で、相反する二つの感情が交差していた。
 祥子さまの呼吸が、祐巳の前髪をかすかに揺らしている。しかしその息づかいは、腹が立つほど穏やかだった。祐巳と違って祥子さまは、これっぽっちの事で動じたりしないのだ。
 そして、美しいハーモニーが、壊れた。
 祐巳が、わざと音を外したから。
「やっぱり、駄目ですね。祥子さまにはついていけません」
 小さく笑って椅子を下り、ピアノから離れて背中を向けた。
「そう? とても気持ちよく弾けていてよ」
 祥子さまは、ピアノの蓋をそっと下ろした。カタンという溜息ほど小さな音が、二人だけの音楽室では妙にはっきりと耳に残った。
 ゆっくりと、祥子さまがこちらに向かって歩いてくるのがわかった。上履きの音はやわらかな床に吸収され、これでは先ほど気配が読めなかったのも仕方が無い、と思われた。
「じゃ、そろそろ行きましょうか」
「は?!」
「は、じゃないわよ。いったい、私が何をしにここまで来たと思っているの?」
「そう言えば、祥子さまはなぜここに?」
「もちろん、あなたを迎えにきたのよ」
 祥子さまは、当然でしょう、というように片眉を上げて斜に構えた。
 どちらに、とは聞かずに済んだ。その前に、祥子さまが説明してくれたからだ。
「いい? これから学園祭までの間はずっと、放課後は私達の芝居の稽古に付き合って貰うわよ。それはあなたの義務ですからね」
 祥子さまの言い分は、こうである。
 ただでさえ忙しい身の祥子さまが、タイムリミットまでの短い時間で学年の異なる祐巳を説得するには相当の無理がある。ここは条件をフェアにする為にも、部活の無い祐巳は放課後の数時間を山百合会の為に提供して然るべきである、という結論に達した、と。
「そんな無茶苦茶な!」
「無茶苦茶なものですか。お姉さま方だって、その事は承認済みよ。それに」
 祥子さまは祐巳の顎に人差し指を掛けて、顔を正面に向けた。
「考えてもご覧なさい? あなたはシンデレラの代役なんですからね。練習に出ないなんて事、許されるわけないでしょう?」
「代役……って。でもそれは、私がロザリオを受け取った時の話で―――」
 祐巳の反論は段々と小さくなる。祥子さまのお顔が、段々と近付いてきたのも要因の一つだ。
「受け取らないという確固たる自信があるから、祐巳は練習に出ないつもりなの? だったら、私も出なくていいという理屈になるわね?」
「そんな」
 静かな淡々とした口調で、祥子さまは祐巳を諫めた。
「でも、私は練習には出るわ。『絶対』なんて言い切れる事は、世の中にそう多くはないもの。お姉さま達との賭けにしても、自信や確率はともかく、未来に待っている結果は二つに一つだもの。シンデレラをやるのは、私かあなたのどちらかしかないというのなら、私は練習するわよ。たとえ自分の自信と矛盾する行動だとしても、本番でみっともない姿を晒すよりましだもの」
 祥子さまは祐巳の後れ毛をそっと耳にかけると、俯いて小さく笑った。
「祥子さま……」
 何も言い返せなかった。ヒステリーを起こして拒絶しようとも、祥子さまはちゃんと道理を弁えているのだ。彼女の中では、正しい事と間違った事が、資源ゴミの分別のように明快に仕分けされているに違いない。
 失望させてしまっただろうか、と思うと胸がキュッと締めつけられた。ピアノの連弾をしていた時に感じた、ワクワクともドキドキとも違って、放っておくと訳もなく涙が溢れて来そうな不思議な心境になった。幼い頃、人混みでお母さんの姿を見失いそうになった、あの時の気持ちに少し似ていたかも知れない。
 祥子さまが顔を上げるのがもうちょっと遅かったら、祐巳はきっと「ごめんなさい」と言って縋り付いていた。
「でも、そうね」
 思い直したように、祥子さまが呟いた。
「あなたにはあなたの考え方があるのだし、強制はしないわ。でも、私が練習する所を見に来てくれない?」
「………はい」
「じゃあ、鞄持って」
 促されるまま、祐巳は机の上に放置したままにしてあった自分の鞄と、掃除日誌を手に持った。
 何だか上手い具合に祥子さまのペースに乗せられてしまっているのではないだろうか。首を傾げながら、しかし、そんな事を考えるなんて罰当たりな、とすぐさま自省した。
 たまたま昨日はヒステリックになってはいたものの、祥子さまは本来マリア様のように清く正しく美しい、絵に描いたような理想的なお姉さまである。いや、そうあってもらわなければならないのだ。
「どうしたの? 祐巳、いらっしゃい」
 扉の前で、祥子さまが呼んだ。
「あ、はい!」
 小走りで行くと、祥子さまは「静かにね」と告げて祐巳のタイの形を直した。
 昨日の朝と同じ感じ。一瞬、背景が銀杏並木の風景とシンクロした。
「あ」
 祥子さまは呟いて、祐巳を見た。
「あの写真……昨日の朝撮られたの?」
「ええっ?」
 信じられない事に、祥子さまはたった今、祐巳との出会いのシーンを思い出したらしい。
「写真を見て思い出さなかったんですか」
「あれが自分だっていう事と、一緒にいる子が祐巳だって事はわかったわよ。けれどそれがいつの事なのかまではね、思い出せなかったのよ。だって武嶋蔦子さんの取った写真、日付が入って無かったんだもの」
 そういう問題ではないと思ったけれど、言わずにおいた。すぐに忘れてしまうほど印象が薄かったという事を、わざわざ認識して貰う必要もないし。
「じゃあ祐巳とは、本当に昨日初めて会ったのね」
「そうです」
 祐巳は音楽室の扉を閉めながら頷いた。初めて声を掛けて頂いたのは、祥子さまが姉妹宣言するたかだか数時間前の事。だから『藁しべ長者』と呼ばれようと、反論なんて出来る筈も無いのだ。
「思い出してスッキリしたわ」
 本当にすっきりしたらしい笑顔で、祐巳を横に従え、祥子さまは廊下を歩く。噂が凄い勢いで広まった今日、連れ添って歩いているのもどうかと思ったが、祥子さまが何も気にしていないようなので良い事にした。さっきまでより廊下にいる生徒の数も少なくなった事だし、何より祥子さまなら多分コソコソする方を嫌うと思うから。
「祥子さまは、そんなに頻繁に下級生のタイを直してあげているんですか?」
 だったら、祐巳の事も覚えていなくても仕方ないと思った。しかし祥子さまの、整った唇から出た答えはというと、
「逆よ」
「え?」
「滅多に……いいえ、ほとんどそんな事しないの。どうしてそんな気になったのかしら?」
 階段を下りながら、祥子さまは本当に不思議そうに呟いた。それからしばらく考えていたようだが、一階分の階段を下り終わった頃には彼女なりの解答を導き出していた。
「朝は弱くて頭の中がぼんやりしているから、無意識に呼び止めたのかもしれないわね。すぐに思い出せなかったのもきっとそのせいよ」
「朝が弱いようには見えませんでしたけど?」
「よくそう言われる。……でも実は、低血圧なの」
「はあ、低血圧」
 何だか、知れば知るほど小笠原祥子さまという人がわからなくなっていく。確かにここにいるのは憧れのあの人であるのだけれど、三日前と今とではその印象が全然違ってしまっていた。
 普通は時間の経過とともに、だんだん相手の事が理解されて行くものである筈なのに。


          *


 日誌を提出する為に職員室に寄ると、祐巳のクラスを担任している山村先生が「あらまあ」と言って笑った。
「何かの間違いだと思っていたけれど、あの噂、本当だったの?」
 どうやら教師の間にも、噂は広まっていたらしい。
「でも、不思議ね。小笠原さんは福沢さんに断られたんでしょ? なのにどうして一緒にいるの? それとも、本当はOKしたの?」
 流石は元マリとら学園の生徒。二十も年上とは思えないほど目をキラキラさせて、少女のように聞いてくる。
「えっと、ですね。それは―――」
 祐巳が口ごもると、脇から祥子さまがサラリと言った。
「お騒がせして申し訳ありません。私達の事は、ご想像にお任せしますわ」
 ニッコリ笑って「では、失礼」。祥子さまは祐巳の手を取って、優雅に職員室を後にした。
 口を挟む隙を封じられたマリとらOGで剣道部副顧問の山村先生は、苦笑して手を振っていた。
「さ、祥子さま」
 どんどん歩いて職員室の扉が見えなくなった頃、やっと祥子さまは祐巳の手を離した。
「わざわざ余計な事を言わなくて良いの」
「でも」
「こちらが反応すればするほど、噂っていうのは面白おかしくなっていくの。弁解すべき事があるなら小出しにしないで、周囲に聞く態勢が整った時に一度だけはっきりと言いなさい。騒いでいる間は、柳に風よ」
 でも、祥子さまのように微笑で黙らせちゃうなんて技、普通の高校生にはとても真似できない。祥子さまの理論は、理屈ではわかるけれど、なかなか実践するのは難しい事ばかりだった。





     3



 祥子さまに連れてこられたのは、第二体育館だった。
 ここは校舎の裏手の少し離れた場所にあり、中等部と高等部の生徒をあわせて全員収容出来る第一体育館ほど広くない。広さはバスケットコート一枚分が入る程度ではあるが舞台がなく、そのスペースを使って更衣室、トイレ、洗面所、休憩室が充実されているので、生徒達には結構人気があった。他校を招いての親善試合などにちょうどいい造りになっていて、体育や部活などで広く使用されている。
「そこのスリッパ履いて、上がって」
 来客用に棚に備えてあるベージュのビニールスリッパを、祥子さまは指さした。全ての体育館は、専用の運動靴以外の靴は厳禁とされていた。
 祐巳が指示通りに上履きを脱ぎ、スリッパに履き替えている間に、祥子さまは靴下のまま中に入って行った。
「あ、祥子が来た」
「遅いよ」
 薔薇さま達の声が響き渡る中、祐巳も後を追って体育館の中へ入った。一歩足を踏み入れると、痛いほどの視線を感じた。
 そこに待っていたのは、蔦子さんと黒薔薇さまを除く昨日のメンバー全員。そう、何故か弟の祐麒も居たのだ。もっとも、それに加えて三年生の赤星勇吾さまと柏木優さまのお姿まで見えたから、弟の印象なんてあっという間に薄れてしまった訳なのだが。
 男子剣道部の創立者にして主将、男子個人で日本一に輝いた事もある勇吾さまは、学園の内外を問わない有名人。強豪校からのスポーツ推薦を断わってまでマリとら学園に来たのは、自宅から通える距離にあるからだとか。4月からはスポーツで有名な某大学にご入学される事がこの時期にもう決定しているらしい。
 もう一方の優さまも負けていない。文武両道を地で行く人で、成績は常に学園のトップを争い、人数の足らない複数の男子運動部から助っ人を頼まれては大活躍しているらしい。ご入学されたばかりの一昨年は出来立てホヤホヤの剣道部の副将として出場して団体戦では負け無し。個人戦では勇吾さまに一歩譲ったものの、全国へ進めなかったのは組み合わせの所為だともっぱらの噂である。
 ちなみに、このお二人に黒薔薇さまを加えてマリとら学園三銃士と呼ぶのは公然の秘密だ。
 実は他にも20人程の生徒達がいるのだけれど、山百合会幹部に加えてこのお二方がいらっしゃるものだから、完全に引き立て役だ。その中に一人、祐巳のクラスメイトも混じっている。彼女の所属クラブから、その集団がダンス部だと思い当たった。どうやら今日は、ダンスの練習だったらしい。
 祥子さまは祐巳に端で見学するように告げてから、ダンスの輪の中に入って行った。
「練習を中断させてごめんなさい。さ、続けて下さい」
 するとどこからかクラシック音楽が流れてきて、祥子さまは真ん中で支倉令さまと手を取り合った。他の生徒達も同様にペアになって、曲に合わせて踊り始めた。
 三拍子だから、これはワルツ。
 足取りも軽く踊る生徒達は、どこか違う世界の住人のようだ。
「いらっしゃい。福沢祐巳ちゃん」
 呼ばれて振り向くと、紅薔薇さまが手招きをしている。
「こっちの方が、よく見えるわよ」
 見れば、白薔薇さまと黄薔薇さまも一緒だ。三人がそろって壁に寄りかかり、ダンスの練習風景を眺めている。祐巳は勧められるまま、紅薔薇さまの隣に立った。
 優雅な音楽にのって、生徒達が踊る。
 同じ制服を着ているのに、祥子さまにだけ目が引きつけられた。難しいステップも、ただ普通に歩いているように自然で、まるで身体から音楽が奏でられるように、クルクルと華やかに回った。
 決して他の生徒が悪いのではない。彼女達も、マリとら学園ダンス部の名に恥じない程、スマートに踊っていた。勇吾さまや優さま、それに静さまや他数名は明らかに踊り慣れている。だが、華という意味では誰も祥子さまには勝てないだろう。衣装などつけていなくても、祥子さまが主役だと一目でわかってしまう。
「まあまあの出来でしょう?」
 紅薔薇さまは顔を正面に向けたまま、脇の祐巳に尋ねた。
「まあまあ、なんて……。こんなに素晴らしいのに!」
 どれくらい前から練習しているのか尋ねると、驚く事に今日が初めてだったらしい。
「祥子が来るまで三十分くらいかな? 志摩子と令がダンス部の生徒にステップを習って、今初めて合わせてみたのよ」
「初めて!?」
「初歩は授業でやっているし、志摩子は日本舞踊をやっているから、振りを覚えるのは得意みたい。令は武道で鍛えた集中力で覚えたみたいだけど、まだ無理があるな……。あ、やっぱり踏んだ」
 ちょうど、令さまが祥子さまの足を踏んだところだった。それでも二人は、何もなかったようにまた踊り続けている。靴を履いていないのは、初合わせという事もあって、パートナーの足を踏んだ時の配慮なのだろう。
「祥子はね、正真正銘のお嬢さまだから、社交ダンスくらい踊れて当たり前なのよ」
 紅薔薇さまは、少し自慢げに祥子さまを語った。五歳の時からバレエを習っていたが、中一から三年間は社交ダンスの個人授業を受けたとか。英会話やピアノ、茶道、華道など、中学までは毎日何かしらの家庭教師が来ていたとか。
「何だか、別世界の話みたい」
 ため息が洩れた。十五年生きてきたけど、まだまだ世の中って計り知れない。
「でしょう? 息が詰まっちゃいそう。だから、私が全部やめさせたの。やめざるを得なくした、ってところかしら? 妹にして、山百合会の雑用に引っ張り回しちゃったから」
「………凄い」
 お稽古ごとを凡てこなしていた中学生の祥子さまもすごいけれど、それを凡てやめさせてしまった高二の紅薔薇さまも凄い。
「祥子ね、根はまじめだから、期待されるとその通りやっちゃうのよ。だから、たまには息抜きが必要なの。わかる?」
「……何となく」
「何となく。……それでいいわ」
 曲はすでにクライマックスになっていた。祥子さまはひたいにうっすらと汗をかき、一筋の黒髪が白い首筋に張り付いていた。
「でも、せっかくダンスを踊れるのに、踊る機会はないんでしょうか?」
 疑問のまま口にすると、紅薔薇さまは「どうして、そう思うの?」と逆に聞き返してきた。
「頻繁に踊っているなら、今更男の人が相手だからって嫌がらないんじゃないかな……って」
「そうなの。実は、私たちもそれが疑問だったの。祥子にとっては、『たかだかダンス』なわけ。それなのにどうしてああまで拒絶するのかしらね。あまりに嫌がるから、私たちも理由を知りたくて、すぐには降板を許さなかったんだけれど――」
 もっと面白い事になったわね、と言って、紅薔薇さまは愉快そうに笑った。
「福沢祐巳、っていうスパイスが加わって、料理がどんな風に仕上がるか楽しみだわ」
(ひぇ……)
 ヒュルルと乾いた風が、身体の中を吹き抜けていく気がした。
 時代劇なんかでよく見るシーンで、無宿人のはびこる街道筋の荒れた宿場町に一人佇んでいるような気分になった。埃っぽい乾いた風が肌にヒリヒリと痛い。この先に何が待ち受けているかわからなくて、右も左も敵だらけ。
 バックに流れているのは、優雅なワルツだっていうのに。ああ、もう全然似合わない。
「白薔薇さまの言う通り」
「え?」
「考え込むと、祐巳ちゃんは百面相しちゃうのね」
 紅薔薇さまは知的な顔を崩して、ククククッと笑った。
 音楽が終ると、紅薔薇さまは舞台に立った時の事を想定して、最初の立ち位置や身体の向きなどを指示し始めた。祐巳とおしゃべりしていたのに、ちゃんと見るべきところは見ていたんだ。
「祐巳ちゃんダンスは?」
 白薔薇さまが近づいて来て、二つに分けて結んだ祐巳の癖っ毛をいじった。
「い、いいえ。全然」
「あれー? ねえ、ダンスの授業って二年生になってからあるんだっけ?」
 身体をのけ反らせて、黄薔薇さまに聞く。
「そうだった、と思うけど」
 カセットテープを巻き戻しながら、黄薔薇さまは興味なさげに答えた。
「じゃ、教えてあげよう。手、出して」
「へ!?」
「ほら」
 白薔薇さまは無理矢理祐巳の手を取ると、身体を密着させた。
「あっ」
「祐巳ちゃん、『へ』とか『え』とか『あっ』とかが多い」
 そんな事言われても、出てしまった声はもう引っ込められないわけで。驚かせるような人間にだって、責任の一端はあると思う。
「ワルツだから三拍子ね。一、二、三、一、二、三」
 仕方なく、祐巳はスリッパを脱いだ。
 一で左足を一歩下げて、二で3/8回転しながら右足は横に開き、三で左足を右足にそろえる。次の一で右足を一歩前に出して右に半回転、二で左足を斜め後ろに下げてさらに右へ3/8回転して両足をそろえ、三で右足を小さく前に出す。
 言われた通りにやっているつもりなのに、どうもうまくいかない。
「腰引けてる。ほら、下見ないで。足踏んでも良いから」
 一、二、三。
 一、二、三。
 どうにか下を見ないで済むようになった頃になって、ようやくと自分達を取り囲む空気に気がついた。振り付けの打ち合わせを済ませたダンス部の一団が、奇妙なものでも見るように祐巳と白薔薇さまのダンスを見つめていたのだ。
「あ、まずい。今度は祐巳ちゃんの二股説が広まっちゃうかな」
 白薔薇さまは笑いながら身体を離した。それから大きく片手を上げて、皆に告げた。
「はーい。それでは皆さんに新しいお友達を紹介します。福沢祐巳ちゃんです。今日から群舞に参加しますから、仲良くしてあげてくださーい」
「っ――」
「えっ!」と叫びたいところであったが、さっき指摘された事を思い出して、祐巳は自分の口を押さえた。
「ただ見学しているだけじゃ、つまんないでしょ? それに『いざ』という時の事を考えたら、ダンスに慣れておいた方が良いわよ」
 耳もとで恐ろしい事を囁いてから、白薔薇さまは祐巳の背中を押した。
 しかし、『いざ』っていったら、祥子さまの代わりに舞台に立つっていう事で。
(仮にも私が落とされない方に賭けている白薔薇さまが、駒にマイナスイメージを与えてしまっていいわけ!?)
 しかし薔薇さま達にとっては、勝とうが負けようが自分達は一切傷つかない。ただ成り行きを面白がって見ているだけ、そんな風に見て取れた。
「誰か、組んであげて」
 周囲が俄かにざわつく中、黄薔薇さまは面々の顔を見ながら言った。
「じゃ、私が」
 簡単に手をあげた人を見ると、何と黄薔薇のつぼみである、支倉令さまだった。
「で、でもっ。令さまは、祥子さまと」
「私は代役だもの。本物の王子さまが参加されたらお役目ご免だし、祐巳ちゃんとペア組んでも問題無し」
 どうしよう。空っ風くらいじゃすまなくなるのではないだろうか。
 いくら疎くても、肌に痛いほど突き刺さる好奇の視線は感じられる。いや、好奇ではなく嫉妬であるかもしれない。
 まずは、紅薔薇のつぼみである祥子さまを振ったという噂が立って。それなのに仲良く体育館に登場したかと思うと、今度は紅薔薇さまと親しく談笑し。それが済んだら白薔薇さまにダンスを教えて貰い、極めつけに黄薔薇のつぼみの令さまのダンスパートナーになるなんて。
 何様のつもりなの、あの子。――絶対にそう思われていると思う。
 そんな風に、注目を浴びるつもりなんか毛頭無いのに。どうしてこう、希望とはまるで別の方角へ流れていってしまうのだろう。
 それから再開された練習はというと、当然針の筵だった。
 一緒に踊っているつぼみ達はそんな事無いのだが、数の上では断然多いダンス部の視線が妙に痛かった。一緒に踊っている筈の祐麒の事なんか、忘却の彼方。
 正面からも背中からもバチバチと感じられるし、右を向いても左を向いてもダンス部の生徒と目があってしまう。その上、白薔薇さまとの練習ではかなりゆっくりだったので、音楽の速さに足はついていかず、令さまの足を踏み、令さまからも足を踏まれ、散々だった。
 そんな中、やはり祥子さまは優雅だった。相手になろうか、という白薔薇さまの申し出を断り、一人でステップを踏んでいた。胸を反り、腕をやわらかく曲げただけでも、あたかもそこに王子さまがいるかのように見えた。
 祥子さまが今見つめているのは、どんな王子さまなんだろう。どんな王子さまなら、祥子さまは自分から手をつなぐ気になるのだろう。
「よそ見しない」
 注意されて我に返ると、令さまがわざと怖い顔をしてみせた。
「祥子の事が、気になるみたいね」
「いえ。そんな」
 答えながらも、やっぱり気になるのかな、と思った。だって、またすぐに祥子さまの姿を目で追っている。
 見えない王子さまと踊っている祥子さまは、羽が生えたように軽やかだった。
 祥子さまの思い描く王子さまがこの世のどこかにいるとして――、祐巳は思った。確実に言える事は、それはあの黒薔薇さま以上に素敵な男性なのだ。それを考えると、世の中の男性方がこの上もなく哀れに感じられた。
 お気の毒に、ご愁傷様。
 マリとら学園のシンデレラは、物語とは違ってこの上なく高慢で理想が高いのだ。



いよいよ賭けが始まって本格的に動き出した〜。
美姫 「果たして、どんな結末が待っているのか!?」
黒薔薇さまと踊りたくない理由って何なんだろう?
美姫 「その辺も、徐々に分かってくるとは思うわよ」
う〜ん、次回が楽しみ。
美姫 「それでは、また次回で」
ではでは。



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