『華の園に咲く物語り』




 何故、と思う。
 何故自分は、と思う。
 水に晒され続ける脚は、耐えようもなく冷たくなりそうなのに。
 なのに何故、そこに立ち続けるのだろう、と。
 水が温かいから? ――そんなことはあるまい。
 冷たさに麻痺して動けない? ――それも、違う。
 きっと、どうしたらいいのか、わかっていないのだ。
 しかし、どうしたらいいのかがわからないくせに、どうすることも考えない。ただ、そこに立ち続ける以外に、何もしない。立ち続けることを決めて、ではなく。立ち尽くしているから、立ち続けるだけ。
 ――しかし、自分に似た人に言われて気付いた。
 時折、その川の岸を見て、自分以外の自分が考えるのだ。
 そこにある姿が。そこに聞こえる声が。確かに熱を与えてくれて。
 手を引かれること。背を押されること。そして、呼ばれることを。
 それを待っているから、立ち続けているのだろうか――、と。










〜    〜










 それは姉である、佐藤聖の一言だった。

「私がいるのが沼だとしたら、志摩子が立っているのは川かしらね」

 薔薇の館を出て直後の突然の例え話に、志摩子は一瞬だけ目を丸くしながらも、すぐに表情を戻した。聖の言葉の意味が、何となくではあるものの、わかってしまったような気がしたからである。
 聖が、前方で振り返った紅と黄の薔薇の姉妹達に、さよならの手を振った。
 それに倣って手を振りながら、志摩子は聖が言ったことをそのまま聞き返した。

「沼、ですか」
「うん。自己分析には自信があるんだ」

 そう言う聖の顔には笑みが浮かんでいる。
 それを見て志摩子は思った。――「自分は沼にいる」というのは、気持ちのいい分析なのだろうか、と。
 志摩子のイメージでは、沼と聞いてすぐに浮かぶのは、あまりいいものではなかった。
 湖のような沼も、白鳥がやってくる沼だってあるのだけれど、それでも、まず浮かぶのは濁った水。次に、まとわりついて絡みつく、ぬかるんだ泥。底なし沼や泥沼なんて、浮かぶ言葉もよいものではない。

「濁った水の中に、私はいる。泥でぬかるんでいるかもしれない。草は生い茂っていてもいなくても、どちらでもいいけれど」

 聖の言った沼はどうやら、志摩子の印象のそれと同じようなものらしい。
 言葉が続く。

「その沼はきっと綺麗なものじゃない。だけど私は、そこに適応した。してしまった。そこはとても居心地が悪いはずなのに、留まれてしまった」
「……お強いですね」
「違うわよ。強ければ、居心地の悪いところに留まったりなんてしないでしょ」

 彼女の話していることはきっと、とても辛く、悲しい話だ。なのに、それを語る口調は穏やかで、その表情には変わらず笑みが浮かんでいる。
 志摩子から見れば、やはり彼女は強い人だと思える。彼女が自身を「弱い」と言うことに関しては、彼女自身の自己評価なので何も言うことはない。ただ、藤堂志摩子が佐藤聖を評価する場合には、やはり「強い」と言う以外にないだろう。居心地の悪いところに留まってしまった、そこを抜け出す強さがなかった――、と言っても、その居心地の悪い場所に居続けられる強さが、確かに彼女にはあるのだから。

「お強いですよ。たとえ、ご自身にとってはそうではなくとも」

 だからどことなく誇るように、そして羨むように、姉の強さを口にする。
 すると聖は苦笑しながら、肩を竦めてみせた。

「変なところで強情よね、まったく」

 自分なら、足掻きもしないで底に沈んでいくかもしれない。だから素直に感じたことを口にしただけなのだけれど、強情という評価を志摩子はいただいてしまった。しかし、心外でもないし、喜ばしいことのようにも思えるので、とりあえず受け取っておく。
 そして次は、志摩子が話を引き継いだ。姉と交わす言葉が少ない、と仲間に言われる志摩子にしては、珍しく積極的とさえいえるかもしれない。

「お姉さまは、何故そこに留まれるのでしょう?」
「慣れちゃった、って言ったじゃない。棲んでみたら悪くなかったの」
「先程、居心地が悪いと仰ったではありませんか」
「居心地が悪いから、いい場合もある。綺麗な湖も、優しい海も、今の私には水が合わないのよ」

 ああ――。
 志摩子は涙を流しそうになった。でもそれは、してはいけないことだ。
 普通の姉妹ならそれでいいかもしれない。姉の心を悼んで、代わりに涙を流してもいいのかもしれない。
 しかし自分は、姉が笑っているのなら、自分も笑い返す。それが佐藤聖の妹ではないか――、と志摩子は思うから。
 そんな志摩子の考えを知ってか、儚げで、奥底に辛さを秘めているような笑みが、少し穏やかな和らぎを増した。

「だけどね? 濁った水の中で呼吸が出来るようになっても、たまに外に顔を出すんだ。沼の外には眩しい太陽があって。澄んだ青い空があって。緑が萌えていて。濁った水の重さでまた沈んでいくんだけど、その時見たものは、確かにとても素晴らしいもので」

 志摩子はただ頷いた。
 太陽も、青い空も、萌える緑も、比喩的な表現だ。それはきっと、聖を取り巻く者達のことなのだろう。声と眼差しに、自分もその中にあるのだと感じて、志摩子は胸が熱くなった。
 しかし同時に、寂しさも感じる。
 太陽も、青い空も、萌える緑も、姉をその沼から抜け出させることは出来ないのだろうか、と。

「だから、やっていける。そういうものがなかったら私は、底の泥に埋もれて朽ちていくだけ。朽ちてしまう方が楽かもしれないけれど。幸いなことにそうはならずに、その沼で生きられている」
「誰かに引き揚げてもらおうとは思わないのですか?」
「下手に踏み込まれて、巻き添えになられるのは勘弁だわね」

 聖の顔がそこで、「はい、言い切りました」という表情をした。
 志摩子はそれを見て、再度、また同じ結論を口にする。

「やっぱりお強いです、お姉さまは」
「……そうだね。きっと私は、少しは強くなれた。それは認めなくちゃいけないことだ」

 自分を誇る為ではなく、その素晴らしいもの達を誇る為に――。
 そういう意味が含まれた言葉は、やはり、強い人の言葉だと志摩子は思う。
 そして聖の口から、今度は志摩子の話が始まった。
 最初の、「聖が沼にいるなら、志摩子は川に立っている」というものである。

「志摩子がいるのは綺麗な川。立っていることは、辛くもないけど楽でもない――、そんな流れのね」
「踏ん張るというほどの力は必要ないけれど、全く力を抜けば流されてしまう?」

 志摩子が聞き返したことに、聖は頷いて肯定した。

「……流されてしまえば、楽なのでしょうね」

 志摩子は呟いた。
 それはきっと、いつも考えていること。
 自分が川に立っているという例え話はこれが始めてだけれど、いつ流されてしまってもいい、という考えは常にある感情と同じものだろう。自己分析だけではなく、姉の例えは、やはり見事なものだった。
 瞳を閉じて、清流の中に立ち尽くす自分の姿を思い浮かべる。
 それはとても、寒々しい絵。

「でも流されずに立ち続けている――」

 冷たくなっている頬に熱を感じて、志摩子はまぶたを上げた。
 触れたのは聖の指。手袋はしていないけれど、ずっとポケットに入れていたらしく、二月の外気の中にあっても温かい。
 しかし、それ以上に温かい瞳が、すぐ前にあった。

「それは志摩子の強さなんじゃないの? 自分ではそう思わなくても」

 聖が笑う。
 その言葉は、志摩子が聖に言ったのと同じことだった。
 志摩子はそれを受けて考える。――この自分に、本当に強さがあるのだろうか、と。
 川の流れの中に立ち尽くしているのは、立ち尽くすしか出来ないからではないか。流れてしまってもかまわないという覚悟だって、褒められたものではないはずだ。
 考えれば考えるほど、姉が見出すような強さがわからないまま、時間が緩やかに過ぎていく。
 やがて五分程が経ったかというところで、聖が口を開いた。

「同じだよ。志摩子も、私も」
「え?」
「そこから見えるものに、ほんの少しの強さをもらっているんだ」
「――」

 視界が潤んだ。
 見えるものが、霞んで映る。それでも温かな指が触れる頬に、余分な熱を伝わせないよう、こぼれそうな雫を押し留める。

「川の岸が見えるから、私は立っている……」

 流れの中を、進む力は湧かなくても。
 それでも自分はそれを見て、その場に立ち続けている。
 だとしたら。その場にいることに意味があるのだとしたら。
 それは立ち尽くしているのではなく、立ち続ける意志を持ってそこに留まっているということ。
 もしかしたら、それは志摩子の強さ――、なのかもしれない。
 しかしそうは思いながらも、志摩子には先の聖のように、それを自分の強さと認める気にはなれなかった。

「それでも私は、脆く、弱い人間だと思います」

 目を伏せて、そう吐き出す。
 聖は志摩子の頬にあった指を後ろに滑らせ、そんな妹の頭を胸に抱き寄せた。

「いいんじゃない、それで。無理に強くなってしまうと、後で面倒になるから」

 頭上から聞こえる、酷く優しい声。
 志摩子の瞳から、抑えきれなくなった涙が溢れ出した。でもそれは、流れるそばから姉の胸の中に消えていく。
 ああ、こうなることがわかっていたから、抱き寄せてくれたのか――。
 柔らかな香りのするコートを濡らしていきながら、志摩子は姉のその厚意に感謝した。

「いつか、腕を強引にでも引っ張ってくれる誰かが、現れるかもしれない。背中を力いっぱい押してくれる誰かが、現れるかもしれない。止まった足を動かす誰かの、声が届いてくるかもしれない」
「誰か……」
「それは山百合会の誰かかもしれないし、いつか会う誰かかもしれない。もしかしたら、今日すれ違った程度の誰かかもしれないけれど。『かもしれない』ばかりでも、可能性があるなら待つ価値はあるわよ」

 聖はそう言うと、志摩子を解放した。
 そして、目を腫らした妹に笑いかける。

「私はそこまで行けないけれど」

 志摩子も自分の手で涙を拭い、姉に微笑み返す。

「お姉さまは、見えるだけで十分ですから」

 涙の跡に冬の風が冷たい。ずっと寒空にあった体も、すっかり冷えている。
 「んー」と体をほぐすように背伸びをして。胸いっぱいに吸い込んだ息を、空に一気に吐き散らし。眉根を寄せながら、疲れた顔で聖が言った。

「――ところでさ。沼より川より、冬に外で立ち話、の方が問題あると思わない?」
「ふふっ。それはそうですね」

 胸の中に温かさを抱きながら、志摩子も姉の言葉に頷いた。











あとがき

 ごきげんよう。

 これまた第四回と第五回の幕間、その志摩子さん編です。ヒロインになるかどうかはともかくとして。
 気遣ってはいるけれど、結局何かをしてあげるまでには至らず、しかし妹を導く姉――って感じで聖さまを書いたつもりですが、ベタベタしてると感じるようでしたらお許しを。聖さまと志摩子さんはあまりベタベタしない姉妹なので、加減が難しいですね。
 ちなみに由乃編もたいがいですが、この志摩子さん編に至っては恭也の名前すら出てきません。一見すると、クロスSSじゃないくらい。『誰か』は、乃梨子ちゃんかもしれないし。
 次回は本流、第五回。恭也も出ますが、オリキャラが登場となります。
 そういうのが嫌いな方もいらっしゃるかと思いますが、マリみての雰囲気を壊さないようには気を付けますので。

 以上、クリス・クロスで少々撃沈気味なUMAでした。




今回は志摩子編〜。
美姫 「聖と志摩子の姉妹同士のお話ね」
うんうん。とっても聖らしいよな。
美姫 「本当に。これが今後に関わってくるのかどうかは分からないけれど…」
とっても面白いお話でした〜。
美姫 「本編の方も楽しみにしてますね〜」
ではでは。



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