トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜
第3章 夏のかけら
3 忍び寄るは魔の影
*
アリスは焦っていた。
ほんの少し気分転換をするつもりでスタジオの外に出ただけなのに、気づけば自分のファンだという大勢の人たちに囲まれている。
一体どうしてこうなったのか、彼女にはまるで見当がつかなかった。
自分のような天然の金髪碧眼がこの国では珍しいことは知っていたが、それだけで正体に気づかれたとも思えない。
椎名のコンサートにゲスト出演したときから別段変装等はしていなかったアリスだが、だからといって一目で分かる程メディアに顔を出してもいないはずだった。
近くにCD宣伝用のポスターでもあったのだろうか。
とにもかくにもそんなふうに声を掛けられたことなどなかったアリスは大いに戸惑ってしまっていた。
最初は女子校生が2,3人程度だったのだ。
彼女たちはあの椎名のコンサートを聴きに来ていて、アリスの顔を覚えていたのだという。
それに嬉しくなったアリスは戸惑いながらも求められるままに握手を交し、差し出された彼女たちの手帳にサインをした。
そうこうしているうちに段々人が集まってきてしまい、彼女は逃げるに逃げられなくなってしまったのだった。
「ねえ、歌を聞かせてよ」
そう言ったのは赤毛に赤い目をした少年だった。小学校高学年くらいだろうか。
声変わり前の少年特有の高い声でそうせがまれ、アリスはどうしたものかと思案する。
個人的には全然構わないのだが、今の自分は佐伯レコード所属の歌手だ。勝手なことをして迷惑を掛けるわけにもいかない。
アリスが迷っていると、不意に彼女のポケットで携帯電話が鳴り出した。
これ幸いとばかりに背を向けると、アリスはすぐ近くの路地へと飛び込んだ。
軽く乱れた呼吸を整えつつ、通話ボタンを押して電話に出る。
「ちょっと、何してるの?休憩時間、とっくに過ぎてるわよ」
電話の相手は彼女のマネージャーだった。
「済みません。ちょっと囲まれちゃってて、戻るに戻れないんです」
申し訳なさそうにそう言うアリスに、マネージャーは呆れたように溜息を漏らす。
「しょうがないわね。助けに行ってあげるから、場所教えなさい」
「助かります」
迎えに来てくれるという彼女にお礼を言って場所を教えると、アリスは電話を切った。
さて、これからどうしよう。
そっと角の向こうに視線をやれば、そこには何人ものファンが自分を待っているのが見える。
心情的にはこのまま何処かへ走り去りたいところだが、あいにくとこのあたりの地理に明るくないアリスには不可能だった。
何だか大人しく出て行くのも怖い気がするし、どうしよう……。
「こっちだよ」
アリスが途方に暮れかけたときだった。誰かがそう言って彼女の手を掴んだ。
「えっ?」
引かれるままに走り出すと、そこにいたのは自分に歌をせがんだあの少年だった。
「ちょっと、君」
「逃げたいんでしょ。だったらとりあえず走る」
戸惑った声を上げるアリスに、少年は有無を言わせない調子でそう言って、彼女を引っ張る。しかし、幾つか角を曲がって、辿り着いたそこは……。
「あ、あれ?」
周囲を高い壁に囲まれたそこは所謂袋小路だった。
「……行き止まりじゃない」
膝に手を当てて乱れた息を整えるアリス。少年は聳えるような高さの壁を見上げて首を傾げている。
「可笑しいな。確かここから一本向こうの通りに出られたはずなのに」
「道を間違えたのね。戻りましょ」
そう言ってアリスが踵を返したときだった。
「えっ?」
突然目の前に現れたそれに、彼女は思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
「……まさか、こんな街の中にまで入り込んでいたなんて。お姉ちゃん、僕から離れないで!」
低く唸り声を上げる巨大なケモノの姿に、少年が小さく舌打ちする。
「ダメ、逃げないと……」
ハッとしたようにそう言って少年の服の裾を掴むアリス。その手が小刻みに震えているのを感じて、少年は年に似合わない落ち着いた声で言った。
「怖いよね。でも、怖さに負けちゃダメだ。心を強く持ってさえいれば、人はあんなのに負けたりなんかしない」
低く構えたケモノの周囲に黒いプラズマが発生し出したのを見て、少年もまた両の拳を腰溜めに構える。その手に淡い光が集まるのを見て、アリスは思わず息を呑んだ。
それは霊力とも念動力とも違う力の流れ……。
神咲薫が見たならば、自身の内と世界にあるそれとを同調させるその動きに霊力技に通じるものを感じたことだろう。
先に仕掛けたのは少年のほうだった。
その手から拳大の光の球が放たれる。だが、それはケモノの周囲でスパークする漆黒のプラズマに触れた途端に掻き消されてしまった。
「やっぱり、おまえも代替物……フラグメントかっ!」
「うおおおぉぉぉっ!!」
「ちっ、壊魔衝ブラスティーウインド!」
ケモノが吼える。刹那、その周囲に幾つもの闇色の球体が出現し、少年とアリスに向かって殺到する。
少年はとっさに不可視のエネルギーの広域放射でそれを相殺しようとするが、如何せん狙いが甘かった。
……次弾の装填は間に合わない。防御結界の展開も僅差で同じく。自分だけなら、直撃の一つや二つどうということはないのだが、今は後ろに彼女がいる。
いや、かつての罪さえもまだ償いきれてはいないのだ。これ以上、関係のない人を巻き込むわけにはいかない。
自分に降り掛かるリスクはこの際無視する。所詮自分等はたくさんいる中の一人でしかない。幾らでもとまではいかないが、多少の代わりは利くのだ。
だが、直撃を覚悟したそのとき、不意に少年の腕が上へと引っ張られた。
直後、全身を包み込む浮遊感に、一瞬何が起きたのか分からなくなる。
「飛んでるのか……」
眼下に小さく見えるケモノの姿に、思わず呆然とそう呟く。そんな少年の耳元に唇を寄せて、アリスは言った。
「……目算だけど、たぶん15秒後に着地すると思う。あの怪物が何かしてくるかもしれないけど、防御は任せてもらって構わないから」
「やれるの?」
「生き物を殺すのは本当は嫌だけど、それでもやらなきゃこの先どんな被害が出るか分からないもの。それに、わたしも怪我して帰ったらお姉ちゃんに怒られるし」
「分かったよ。なら、せめて苦しまないようにしてあげる」
「行くわ」
そう宣言し、同時にアリスの背から翼が消える。降下を始めた二人へと迎撃を抜けた幾つかの球体が軌道を変えて向かってくるが、それらは頑強なバリアに阻まれて一発たりとも有効打とはならなかった。
「今っ!」
着地と同時に二人の周囲を覆っていたバリアが消え、少年の右腕から螺旋状の黒い光線が放たれる。
鋭く尖ったその先端がケモノのバリアに接触した瞬間、閃光が世界を白く染め上げた。
*
夕刻、両親との対談を終えた真一郎は両手にスーパーのロゴが入った買い物袋を下げて商店街を歩いていた。
久しぶりに自分が夕飯を作るという母親に頼まれて足りないものを買いに出た彼は、そこで思わぬ特売に遭遇。
というか、単に雪とのことで頭が一杯だったせいで、今日が月に一度の特売日だったことを忘れていただけなのだが。
自炊している身としてはこのような好機を逃す等という愚行を犯すはずもなく、こうして両手一杯の戦利品を抱えて帰宅の途に着いているというわけである。
ったく、こんなことなら親父を引っ張ってくれば良かったよ。
両肩を地球の中心に向かって引き寄せようとする二つの買い物袋に、軽く腕を振って心の中で愚痴を零す真一郎。
この程度の労働で音を上げるでない。情けないぞ。
誰だよ。人の心の呟きに突っ込み入れてんのは。
我が分からぬか。我はそなたを主と認めたというのに。
ちょっと待て。おまえ、まさか……。
愕然とした表情で足を止める真一郎。挙動不審にもきょろきょろとあたりを見回して、それらしい姿がないことに安堵する。
ふぅ、七瀬の悪戯じゃなさそうだな。
……まあ、良い。我はいつでもそなたの傍らにある故、必要になれば呼ぶがよい。
その言葉を最後に謎の声は聞こえなくなる。
「何だったんだ……」
口に出して呟いてみるも、それに答える声はもうない。
「疲れてるのかな」
一度道端に寄って荷物を下ろすと、軽く手で目元を擦ってみる。
視界に特に変化はない。そもそも幻聴が聞こえる程疲れているのなら、こうして普通に買い出しに行けたりするはずがないのだ。
気のせいだよな。
軽く頭を振って下ろした荷物を持ち直すと、真一郎はやや早足で自宅へと向かった。
*
夕暮れの高台に、少女の歌声が小さく広がる。
椎名のコンサートでも歌ったその歌は、彼女にとって特別な思い出の一曲だった。
それはある災害の被災地でのことだった。
ボランティアとして援助物資の配給を手伝っていたアリスは、半壊した建物の前で母親とはぐれて泣いている女の子を見つけた。
当時13歳だった自分よりも小さなその子を放っておくことなど出来るはずもなく、アリスは少女の手を引いて地元住民が避難しているテントへと向かった。
幸い女の子の母親はすぐに見つけることが出来たが、アリスがそこで見た人々の表情は皆一様に暗いものばかりだった。
この災害で家族や友人を失くしたものも少なくはないのだろう。
発生から既に一ヶ月。未だ復興の目処は立たず、いつ終わるとも分からない避難生活に、不安が彼等の心に重く圧し掛かっていた。
記者である母親からここの状態を聞かされ、力になりたいという思いからボランティアに参加したアリスだったが、まさかここまで酷いとは思わなかった。
憔悴した彼等の表情に危機感を覚えたアリスは、自分に何か出来ることはないかと必死になって考えた。
そんなときだった。
彼女の脳裏をある人物の言葉が過ぎる。それは遠い記憶の彼方、泣いていた自分にくれた優しい誰かの言葉。
おぼろげで、それが誰だったのかは今ではもう思い出すことが出来ないけれど……。
目を閉じて、軽く深呼吸をしてから歌い出す。
懐かしい記憶に思いを馳せながら紡がれるメロディーは優しく、暖かく、少年の耳へと届き、その身を、心を包み込んでいった。
「優しい歌だね」
聞き惚れるように目を閉じた少年の口から漏れたのは、率直な感想だった。
あの被災地で聞いてくれた人たちも同じことを言ってくれたと懐かしく思いながら、アリスは慣れるほどに口ずさんだメロディーの最後の一節まで歌い上げる。
歌が終わったとき、彼等の顔には小さいが確かな笑みが浮かんでいた。
それこそが彼女の望んだもの。例え小さくてもそこにあると信じられる希望。
たった一つの願いを込めて謳われた少女の歌は、絶望に囚われかけていた人々の心に届いたのだ。
「やっぱり歌は良いね。歌は素晴らしい。歌こそは人類が生んだ文化の極みだよ。そうは思わないかい?ねぇ、異世界の天使さん」
小さな拍手とともに贈られた少年からのその言葉に、アリスの中で一瞬時が止まる。
「さて、そろそろ帰ろうか。あまり遅くなるとお互い家族が心配するだろうし」
「えっ、あ、ちょっと待って!」
そう言って、服に着いた埃を軽く叩いて立ち上がる少年をアリスが慌てて呼び止める。だが、その声は突然背後で聞こえた爆発音に掻き消されてしまった。
「そういえば、まだ名前言ってなかったよね。僕はフラグメントナンバー04、オリジナルネームはフェンリル。って、それもコードネームみたいなものか。まあ、好きに呼んでくれて良いよ。じゃあね、歌姫のお姉ちゃん」
驚いて振り返ったアリスに、少年は何処か遠くから語り掛けるような距離のある声でそう言った。
火事だろうか。高台から見下ろせる街の一角から黒い煙が立ち昇っているのが見える。
別れを告げる少年の言葉にアリスが慌てて視線を戻したとき、そこに彼の姿はもうなかった。
*
あとがき
龍一「今回はアリスメインのお話でした」
知佳「何か巻き込まれてたみたいだけど」
龍一「このときの出来事が後に何をもたらすのか」
知佳「次回は?」
龍一「ある意味王道編だな。真一郎が大活躍(?)するお話だ」
知佳「何故に疑問系?」
龍一「活躍しているように見えるかどうかは作者の筆力次第だからさ」
知佳「威張って言うことじゃないよね、それ」
龍一「それでは次回、虚像と実像の狭間で手にしたものでお会いしましょう」
知佳「ところで、わたしの出番は?」
*
アリスが出会った少年は!?
美姫 「こらが今後、何を意味するのかしら」
そして、真一郎に語り掛ける謎の声。
美姫 「もしかして…」
一体、何が起こるんだー!
美姫 「次回も楽しみに待ってますね〜」
待っています!